前回までのあらすじ

 直談判し、大隈重信大蔵卿の名を借りてまで紙幣国産化のための新工場の予算計画を上申したものの、認可の下りる気配は一向にない。窮した紙幣頭の得能良介は、同郷の盟友で政府のトップ、大久保利通の力を借りるべきか、頭を悩ませていた。

前回を読むには、こちらをクリックしてください

 維新政府の最高意思決定機関である太政官正院では、9人の参議らによる合議制の運営がなされている。

 顔ぶれは薩摩藩出身が4人、長州藩と肥前藩の出身が各2人。藩閥が幅を利かせており、出身藩の縁故を頼って権力者に影響力を行使してもらうことは、日常的に行われていた。必ずしも不正と呼べるものばかりでもない。なにせ人材登用のための人事制度も急ごしらえの維新政府である。参議にとっても、自分が直接知っていて信頼の置ける人物からの情報をもとに判断を下すほうが、いたずらに時間もかからず理にかなっていることが少なくなかったのである。

 (じゃがのう)

 得能は深い溜息をつく。脳裏には一蔵(大久保利通)と国の行く末を語り合った郷里の日々が浮かんでいる。

 時代の先を見通して国づくりを構想する盟友と意見をぶつけ合うのは、得能にとっても何にも代えがたい切磋琢磨(せっさたくま)の機会だった。論じ始めると深夜になっても止まらない。夜が更けるほどに、一蔵の頭脳は冷たく冴え渡ってくる。そんな時は決まって、長女の清子が握り飯と壺漬けの夜食を用意した。漬物が大好物の一蔵のために、得能家では桜島大根の壺漬けを切らしたことがなかった。得能と一蔵がどれほど目を吊り上げて言い合っていても、夜食が持ち込まれると休戦となった。

 「お清どんの握り飯はうまかのう」

 一蔵が顔を綻ばせて頬張る。それをきっかけに清子も部屋の隅に座り込んで、延々と続く国家論に耳を傾けていた──。

 その一蔵は今や国の最高指導者である。

 (そげん思い出はおいの宝物ばい。それを予算獲得の切り札に使うてどうすっとじゃ)

 しばらく椅子の上で瞑目(めいもく)していた得能が目を開けると、力なく肩を落とした矢嶋と視線が合った。

 矢嶋は帰国してすぐに新工場の設計にとりかかり、以来半年、得能と二人三脚で大蔵省でも太政官正院でも新工場建設認可のための説得を続けてきた。工場長への抜擢人事を意気に感じ、得能への恩返しのつもりで身を粉にして仕えてきたが、紙幣寮内には新参者の彼が重用されたことに冷ややかな者も少なくない。組織の浮沈がかかった大事業を進められない焦燥と徒労感が、矢嶋のめっきりこけた頬から滲み出ている。