欧州留学帰りの矢嶋作郎を工場長に抜擢し、紙幣国産化のための新工場建設に着手した大蔵省紙幣頭の得能良介。太政官正院(内閣)に上申するも、財政難を理由に裁可は一向に下りない。輸入機械の到着が迫り、得能は焦りをつのらせていた。

「正院がこんなおふれを発出いたしました。ご覧ください」
寮頭室に駆け込んできた矢嶋が握りしめた紙を、得能が開いて目を走らせる。表情がこわばり、血色がみるみる失われていく。「明治七年八月十二日 第百六号達」と記された太政官正院から各省への布達文書は、「国事多端の折から、倹約励行の必要により、当分の間、新たな土木工事の開始など焦眉の急を要せざる計画実施は、一切これを認めない」
という強い文言で釘をさす内容となっていた。
「各省宛ての通達にはなっておりますが、間違いなく我々の要求が念頭にあるものと思われます」
冷静さを失って乾ききった矢嶋の喉からは掠れた声しか出てこない。
「おのれ、先回りして防御策を打ってきやがったか」
四の五の言っては新工場建設の認可を先延ばししているだけかと思っていたが、甘かった。向こうは向こうでこちらを抑え込む算段をめぐらしていたのだ。
(こざかしい小役人どもめ)
公式文書でここまではっきり書かれてしまうと、さすがに無視するのは苦しくなる。まんまとしてやられた。得能は拳を握りしめ、思い切り机を叩いた。
矢嶋が恐る恐る口を開く。
「万(ばん)やむをえない苦渋の決断とはなりますが、とりあえず現在の作業場に収まる限りの機械を据え付けて製造を始めておき、新工場建設が認められた段階で製造を本格化させるという二段階方式とせざるを得ないのではないでしょうか」
「馬鹿を言うな。そんな悠長なことをしてられるか」
白旗を上げようとする矢嶋の提案を一言のもとに切り捨てる。かといって自分にも良い知恵があるわけではなく、得能も黙り込む。
「おい、矢嶋」
しばらく布達文書を憎々しげに見つめていた得能が、何かに取り憑(つ)かれたような表情で顔を上げた。
「わしは信じるところを曲げるつもりはないぞ。正院の腰巾着(こしぎんちゃく)どもの言うなりになってたまるか」
計画は完全に暗礁に乗り上げているというのに、まだ諦めないと言うのか。得能は唇を噛み、固く腕を組み、上方の一点を見つめ続けている。
「どうされるおつもりですか」
「かくなるうえは大隈卿に直談判して英断を迫るしかない。行ってくるぞ」
すっくと立ち上がって言い残すと、得能はそのまま1人で本省に向かった。
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