前回までのあらすじ

 紙幣国産化のカギとなる製造設備の輸入交渉がまとまり、版面彫刻技術者の招聘にもメドがついた。大蔵省紙幣頭の得能良介は次に紙幣寮内の意識を一新すべく、工場の官吏の身分を召し上げ雇の職員に格下げする、前代未聞の改革を断行した。

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 紙幣寮の工場に所属する官吏の身分を雇(やとい)の職員に格下げする──。

 得能の過激な組織改革案に、さすがに紙幣助の青江は意を決して翻意を願い出た。しかし、まったく聞き入れられなかった。

 その数日後、青江の腹案であった工場長の人事案も即座に得能に覆(くつがえ)される。

 「閣下が先だって打ち出されました改革は、工場における一体感の醸成がなにより重要とのお考えによるものと、畏れながら理解しております。そういう中で、現場の職工たちには、雇い主が請負業者から紙幣寮に替わっていろいろ戸惑いもあるように聞いております。愚見ではございますが、そういう状況にあればなおさら、工場長については現場の作業を長く見てきた者を使ったほうがよろしいのではないかと……」

 工場の製造業務は請負業者を使わず紙幣寮の直営にする組織改革を得能は断行していた。雇に格下げされた職員たちが現場の職工たちを直接指揮せねばならなくなったのである。青江はたまらず工場長人事だけは却下されてもなお食い下がった。

 現場をそこまで大切に考えるのであれば、工場長には紙幣寮に入ったばかりの矢嶋作郎を抜擢するのではなく、職工たちに慕われている製造課長の中村祐興を起用すべきではと言いたかったのだ。才気走ったところはないが、裏表のない人あたりの良さで作業現場を支えてきた男である。労を惜しまず汗をかく姿勢を組織として評価していることを、青江は現場に示したかった。

 「いや、わしだってそのくらいは考えておるわ。だからフランクフルトの本間にも聞いてみたのだ。矢嶋は若い時分、倒幕の志士として活動するうちに幕府に睨(にら)まれ、譜代大名の江戸屋敷に3年間幽閉されたことがあるそうだ。だがその時も出入りの学者たちにかわいがられて最新の学問を仕入れておったというのだ」

 得能は青江の慇懃(いんぎん)なしゃべり方自体虫が好かない。青江の話を聞き終えずに一気にまくしたてた。

 「それだけではないぞ。ドンドルフで監査していた時には工場の作業長を質問攻めにして、員数を水増し請求していた不正を認めさせたこともある。わしはそういう根性の座った男こそ工場長にと見込んでおるのだ」

 悔しいが、持ち味のまったく異なる中村に、矢嶋の図々しさや逞(たくま)しさを期待するのは難しい。青江は奥歯を噛(か)み締め、下を向いて押し黙った。

 「貴兄の懸念する点については、工場長の直属に次長を新設し、彫刻課長の佐田清次を起用して足らざるところを補わせるつもりだ。それでもまだ矢嶋では足りぬと申すのか?」