前回までのあらすじ

 大蔵省紙幣頭となり、紙幣の国産化に乗り出した得能良介は、難交渉をまとめて紙幣製造機の輸入にメドを付けた。一方、外務省書記官の本間は、紙幣の版面の彫刻技術者であるイタリア人・キヨッソーネを招聘しようと、ロンドンで面会していた。

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 「このたび日本政府は外国から紙幣を買うことをやめ、すべて国産化する方針を決定しました。現在、私がドンドルフ社と大詰めの交渉中ですが、紙幣の製造設備一式を購入する予定ですし、あわせて印刷機械の専門技術者も派遣してもらえることになりそうなんです」

 外務省書記官の本間清雄はロンドンで再会したキヨッソーネに、政府の招聘技術者として訪日するよう説得にかかっていた。

 「そのため紙幣寮では、お札づくりの要である凹版彫刻技術者について候補者探しをしてきました。その結果、貴兄しかいないという結論に至りました」

 「そんな話が進んでいたとは……」

 感情を表に出さなかったキヨッソーネの視線がひとつところに落ち着かなくなった。

 キヨッソーネは芸術家肌の職人で、駆け引きしたり自分を高く売ろうとするタイプではない、と本間は感じてきた。フランクフルトの工場に明治通宝(ゲルマン紙幣)の製造監査に入っていた時、紙幣製造にかかる費用の計上で不審点を指摘したことがある。その時も彼は顔色ひとつ変えず淡々と、ドンドルフ社にとって不利益になるような原価計算上の手の内まで説明してくれたものだ。そんな彼の心がいつになくざわつき始めたのが見てとれる。

 「本当ですか?」

 キヨッソーネの顔が、陽が射すように赤みを帯びていく。驚きの表情には裏も表もなさそうだ。本間は熱弁を続ける。

 「本当ですとも。明治通宝が世に出た時、双龍や鳳凰(ほうおう)の生き生きとした姿ですとか、木瓜(もっこう)型の図案や千鳥の地模様の精緻さに、我が国の人民は息を呑み、声が出なかったほどです」

 「もしそうだとしたら……なんとも光栄の至りですが……」

 「明治通宝にはゲルマン紙幣という愛称まで付きました。日本の人々はこの新しいお札を手に取り、細密な画線の優雅さに感心し、彫刻や印刷技術の高さに文明開化の息吹を感じ取りました。我々はこういう素晴らしいお札を自分たちの手で作れるようになりたいのです。そのために必要なことは……」

 キヨッソーネが初めて日本人からじかに聞く賛美の声であった。ドンドルフ社の幹部を通じて日本側の好評価は耳にしていた。だが、精魂こめて作り上げた芸術作品に捧(ささ)げられる本間の真摯な言葉に、長きにわたる無念な思いがようやく晴れ、労苦と忍耐が報われた気がした。

 キヨッソーネの脳裏に甦(よみがえ)ってきたのは、ロンドンに移り住んで薄れかけていたフランクフルト時代の苦い記憶だ。祖国の銀行で紙幣製造の総責任者になる夢がかなわなくなったばかりか、不愉快極まりない争いごとに発展した無為な日々。

 イタリア国立銀行嘱託彫刻師としての契約を一方的に破棄され、他社への移籍もままならなかった。研修先のドンドルフ社で学んだ内容は、派遣元のイタリア国立銀行のためだけに使用するとの誓約書を結ばされていたからだ。転身のための係争に1年半を費やした。

 (誰かが自分の才能に嫉妬するあまりに画策していたのではないか)

 自らの不遇を思い詰めていくと、そんな邪推を巡らせることさえあった。