盟友・大久保利通の求めに応じて、薩摩藩士・得能良介は明治政府の大蔵省出納頭に就任した。激務の中、洋式簿記の導入を催促する同省改正局員の横柄な物言いに激昂した得能は、その上司・渋沢栄一を呼び出して対峙する。

「こんなくだらん改正のために、わしの部下たちがどれほど苦労させられとると思っているのだ。西洋かぶれも大抵にせんか」
部下への過重な負担を心配する得能は、洋式簿記の拙速な導入に語気荒く抗議するが、若造の担当官では話にならず、改正局長の渋沢栄一を別室に呼び出し直談判に及んでいた。
「くだらんとは聞き捨てならんですな。洋式簿記の導入は近代国家に不可欠です。得能さんもよく承知のはずではないですか」
「そんなことは分かっておる。わしが言っておるのは、なぜ今、こんな煩わしい制度に替えねばならんのかということじゃ」
不正追及のための大切な戦力をこんな作業で潰されてはたまったもんじゃない。得能は気色ばんで渋沢に食ってかかる。一方、いきなり議論を吹っかけられた形の渋沢だが、事情がよく呑み込めないながらも何とか穏便に収めようと、感情を抑えて応戦する。
「いつまでも大福帳方式を続けるわけにはいきませぬ。そちらの部下たちにも懇切に説明しております。金の出入りの元締めである出納寮が範を示せないようでは困りますぞ」
「そもそも部下たちのほとんどは出納事務自体に不慣れな状況なのだ。そういう中で記帳方式を変更するとはどう考えても拙速に過ぎるわい」
「新しい制度を入れるのですから、多少の混乱はやむをえないのではないでしょうか」
「それでなくともうちの連中は事務繁忙が続いておるというのに、今回の改正で余計な手間は増えるわ間違えは続出するわで、みな困り切っておるのだ。それが分からんのか。号令を出すなら実態をよく見てからにしろ。そちらの若いもんは偉そうにやり直しを命じてくるが、そのために夜通し働き、倒れる者まで出るありさまだ」
もともと得能は蛮勇で鳴る薩摩藩士の激しい言葉使いに慣れている。それもあって、ひと回り以上も年下の渋沢に冷静に切り返されると、ついつい言い方が荒っぽくなる。
すでに48という平均寿命に近い年嵩(かさ)の得能だが、役職としては渋沢より下である。しかし、部下がこれだけ混乱し、疲弊しているのを目の当たりにしている以上、黙ってはいられない。組織の序列など糞くらえだ。
「さんざん審議を積み上げた末に決定したことではござらぬか。余計な手間とはちと言葉が過ぎますぞ」
得能が声を張り上げれば張り上げるほど、渋沢の方は落ち着き払って低い声でたしなめてくる。その口ぶりは分別の無い息子を叱る母親のようで、それがまた得能の神経を逆撫(さかな)でする。
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