小学校の教室の半分ほどの広さの部屋は、肌寒いほどの気温に調整されている。無人。並べられた冷蔵庫のコンプレッサーから出る低音以外は何も聞こえない。冷蔵庫の中は2つの温度帯に保たれている。一つは4度、もう一つはマイナス80度。それぞれの中には、ケースに入った鶏卵のようにおよそ1.5万本の試験管が整然と収められている。

 臨床検査受託大手H.U.グループホールディングスの子会社・エスアールエル(SRL)の相模原ラボラトリーに保管されているこれらの試験管の中身は、ヒトのDNAとRNA。しかもすべて、日本国内で新型コロナウイルスに感染した患者から採取された血液から抽出されたものだ。この保管庫から輸送されて大学や研究機関で分析されているものも含めると合計およそ3万本になる。

 患者1人の血液15cc前後から、DNAを保管する試験管が4本、RNAを保管する試験管が2本得られる。つまり3万本の試験管の中身とは、5000人近くの新型コロナ患者の血液に他ならない。

 まさにデータの宝庫と言っていい。検体(検査・分析のために採取された組織)の提供者には老若男女がそろっている。重篤化した患者も、軽症で済んだ患者もいた。何が彼ら彼女らの運命を分けたのか。遺伝子にその答えがあるとすれば、この3万本の中に眠っているはずだ。

 しかも、この3万本の検体は、今この時点ではもはや手に入れられないものになっている。

 日本では2021年後半からワクチン接種率が急増した。それ以降に出た患者は、重篤化の有無を決めた要因がワクチンの効果によるものなのか、その患者固有の因子によるものなのかの切り分けが難しい。一方、この3万本の中にある最も古い検体は20年5月に採取されている。以降も、少しずつ検体を増やし続けてきた。

 つまりこの低温保存された3万本には、ワクチン接種によってすでに多くが失われてしまった日本人の血液の断層が刻まれているのだ。

 のちに新たな治療法や予防法として結実する対新型コロナ研究の最前線に貴重なデータをもたらしたこのアジア最大級の検体群はいかにして生み出されたのか。それは、国が音頭を取ったのでも、巨大資本の製薬企業がけん引したのでもなかった。

 まだ眼前に広がる疫病の規模すら計り知ることができず、失われていく生命をつなぎ留めることに誰もが精いっぱいだった時、いくつかの頭脳がその先を見据えて動き始めていた。医療現場や政治政策ではなく、3万本の試験管をめぐる、これまで語られなかったもう一つの「コロナとの戦い」をこの連載では書いていく。

専門外の2人の会話から始まった

 時は20年2月に戻る。

 小川誠司は、テレビに映るニュース番組を眺めながら缶ビールをあおってつぶやいた。

 「この船で、検体取ってんのかなぁ」

 小川は京都大学大学院の教授であり、がんのゲノム研究では世界的に知られる科学者だ。ニュースが報じているのは、豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号で起きた新型コロナウイルス感染症の突発的集団発生(アウトブレーク)だった。

<span class="fontBold">京都大学大学院教授の小川誠司は検体分析の基盤づくりのため、他大学の医師たちを巻き込んでいった</span>(写真=行友 重治)
京都大学大学院教授の小川誠司は検体分析の基盤づくりのため、他大学の医師たちを巻き込んでいった(写真=行友 重治)

 「検体か……」

 小川のつぶやきに応じたのは金井隆典。慶応義塾大学医学部長で消化器内科を専門としている。