前回までのあらすじ

在野の医師たちの呼びかけで新型コロナウイルスの重症化因子を探る「コロナ制圧タスクフォース」が立ち上がった。全国の医師たちの協力と献身により異例のペースで約5000人分の検体が集まった。いよいよこれを分析していく。

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 東京・白金台。瀟洒(しょうしゃ)な住宅や飲食店が軒を連ねる表通りから足を踏み入れると、うっそうと木々が茂る一角がある。古風な洋館のような建物が並び、花壇のそばのベンチには子供づれの家族が遊んでいる。白衣姿の男女が行き交っている。

 明治期、留学から戻った北里柴三郎が活躍する場として福沢諭吉らが開設した伝染病研究所を前身とする東京大学医科学研究所だ。その古めかしくのどかな外観に似合わず、今も感染症と戦う日本最先端の研究がここでなされている。

 記者はその一室を訪れた。150m2ほどの部屋に、高さ2mのラックが並んでいる。排熱で汗ばむほどに暑く、演算装置を冷却するためのファンの音は、耳のそばで声を出さないと相手に聞き取ってもらえないほど大きい。同研究所ヒトゲノム解析センターのスーパーコンピューター「SHIROKANE(シロカネ)」だ。

 新型コロナウイルスに感染しても、重症化する患者もいれば軽症で済む患者もいる。その運命を分けるもの──いわゆる「ファクターX」を探るために在野の医師たちが立ち上がり、「コロナ制圧タスクフォース」を始動させた。共鳴した全国の医師たちの献身と協力により、異例の短期間でおよそ5000人の患者から検体となる血液を収集することができたことは前回までに書いた。

 全国の病院で採取された血液は、受託検査大手H.U.グループの輸送網で当日夜には関東の拠点に届く。血しょう、DNA、RNAに分けられた後、解析のため、保存される。

<span class="fontBold">全国120カ所の病院から集められた検体はDNAやRNAなどに分けられ、解析される</span>(写真=的野 弘路)
全国120カ所の病院から集められた検体はDNAやRNAなどに分けられ、解析される(写真=的野 弘路)

 ヒトの遺伝情報の本体に当たるDNAは4種の塩基(アデニン=A、チミン=T、グアニン=G、シトシン=C)から成る。AとT、GとCが水素結合した塩基対が約30億。その配列をもとにたんぱく質が作られ、わずかな違いが一人ひとりの体の個性を生み出している。採取された血液から抽出されたDNAとRNAは次世代シーケンサーと呼ばれる装置にかけられ、この塩基配列が文字列として書き出される。

 スパコン・シロカネで蓄積・解析されているのが、その塩基配列だ。

 患者1人につき30億の塩基対があるということは、5000人分で15兆対。解析のために実際に扱うデータ量はその20~30倍になる。もう一方に、検体を提供した患者の症状に関する記録がある。この2つから、遺伝子と症状の相関を見いだしていく。扱うデータが大きく、通常のコンピューターでは手に負えない。

 「ちょっと手伝ってよ」

 2020年4月、同センター長の井元清哉の元へ、前任のセンター長だった宮野悟(現在は東京医科歯科大学特任教授)から連絡が入った。

 宮野は、京都大学大学院教授でありタスクフォースを立ち上げた発起人の1人である小川誠司とは旧知の仲だ。スパコンを用いて骨髄異形成症候群(MDS)の原因を解明するなど世界的な研究を共に手掛けた。小川と宮野のコンビが、宇宙や物理の研究で使われることが多かったスパコンを日本の医学界で導入した先駆者となった。

<span class="fontBold">井元清哉は企業や研究機関向けにスパコンの利用を後押しする</span>(写真=的野 弘路)
井元清哉は企業や研究機関向けにスパコンの利用を後押しする(写真=的野 弘路)

 新型コロナの感染拡大を受けて、何か自分たちにできることはないかと、排水路から下水をくんで分析し、コロナの陽性患者の有無を判定するなどの調査を手掛けていた井元は、宮野の誘いにすぐに応じた。タスクフォースの仕事は、未来の研究者のためにデータベースを作れるというもの。願ってもない仕事だった。

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