大学卒業後に5年間を過ごした銀行では、希望していた与信担当を任された。充実した銀行員生活を過ごす中で、担当企業の取引先が倒産したとの一報に戦慄する。実業家だった父から聞かされていた「経営の恐ろしさ」を痛感することになった。
![<span class="fontBold">小嶋光信[こじま・みつのぶ]氏<br />両備ホールディングス会長</span><br />1945年東京生まれ。慶応義塾大学経済学部卒。三井銀行(現・三井住友銀行)を経て、73年に義父が経営する両備運輸に入社。99年に両備バスの社長に就任し、両備グループ代表に。2007年両備ホールディングス社長、11年から会長。和歌山電鐵や中国バスなどの再建を手掛けたほか、地方公共交通の存続に向けた法整備にも尽力してきた。(写真=菅野 勝男)](https://cdn-business.nikkei.com/atcl/NBD/19/00151/110100002/pf.jpg?__scale=w:400,h:412&_sh=0670ec0a00)
両備ホールディングス会長
1945年東京生まれ。慶応義塾大学経済学部卒。三井銀行(現・三井住友銀行)を経て、73年に義父が経営する両備運輸に入社。99年に両備バスの社長に就任し、両備グループ代表に。2007年両備ホールディングス社長、11年から会長。和歌山電鐵や中国バスなどの再建を手掛けたほか、地方公共交通の存続に向けた法整備にも尽力してきた。(写真=菅野 勝男)
経営の数字にこだわるようになった原点は、三井銀行(現・三井住友銀行)の行員時代です。入行したのは1968年。2年周期で立て続けに不況の波が押し寄せるような時代でした。与信を担当したいという希望がかなったのですが、担当した鉄鋼や出版、ラシャ(毛織物の一種)の業界はいずれも厳しい環境でした。世の中が不況に陥るたびに業界の企業が倒産し、多くの失業者を出していました。
5年余りの短い行員生活ではありましたが、20代の多感な時期の経験は私の人格形成に大きく影響を与えています。密度の濃い時間でした。その中で忘れられないのは、ある背広メーカーの倒産劇です。
それは土曜日の夜でした。当時は半ドンでしたが、いつも通り銀行に残り、夕飯にカレーライスを食べていました。そこに、大手ラシャ問屋が倒産したとの一報が入ったのです。
どこかで目にした社名だな。そう思ってから一瞬の間を置いて気付きました。「しまった!」。担当していた背広メーカーの取引先でした。
この記事は会員登録で続きをご覧いただけます
残り1844文字 / 全文2387文字
-
「おすすめ」月額プランは初月無料
今すぐ会員登録(無料・有料) -
会員の方はこちら
ログイン
日経ビジネス電子版有料会員なら
人気コラム、特集…すべての記事が読み放題
ウェビナー日経ビジネスLIVEにも参加し放題
バックナンバー11年分が読み放題
この記事はシリーズ「両備HD・小嶋光信会長の「不屈の路程」」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
Powered by リゾーム?