吉備公廟の北側にはまきび公園が広がっている。山水を巡らし中国風の建物を配した庭園で、昭和61年(1986)に中国西安市に吉備真備の記念碑が建立されたのを記念して開園したものだ。

 山水のほとりに真備公顕彰碑が建てられ、桓武天皇の詔(みことのり)の一節が刻まれている。

「故右大臣 故(なき)右大臣
往学盈帰 往(ゆ)きて学び盈(み)ちて帰る
播風弘道 風(ふう)を播(ほどこ)し道を弘め
遂登端揆 遂に端揆(たんき)に登り
式翼皇猷 式(も)って皇猷(こうゆう)を翼(たす)けたり」

 端揆とは宰相のことで、大臣になったという意味。皇猷とは天子の治世の道のことである。

 この文章は『続日本紀』の延暦3年(784)の項に記されているが、その理由が面白い。真備の息子の吉備泉(きびのいずみ)(743~814)は天応2年(782)に伊予守になったが、同僚や部下と折り合いが悪く、しばしば告訴された。

 そこで朝廷は使者を派遣して訊問したが、不敬な対応をしたために処罰もやむなしという成り行きになった。この時、桓武天皇が詔を下し、功臣真備の子であることを理由に処罰を見送り、伊予守を解任するだけの処分にとどめた。

 石碑の4行は、この時に真備の功を賞したものだ。息子の泉は親の威光を笠に着て威張り散らしていたのかもしれないが、直情径行だった父親の血を受け継いでいたのではないかと思われる。

 ちなみに真備の盟友だった阿倍仲麻呂にも、帯麻呂という血の気の多い弟がいる。彼は美作守(みまさかのかみ)に任ぜられたものの、仲間と共謀して4人を殺し、被害者の一族から訴えられている。その後どうなったかは定かではないが、律(刑法)に従って死刑になったと考えられている。

 「あわただしくてすみませんが、これを見て下さい。中国西安市に建てられた記念碑とまったく同じ形に作られています」

 地元の方が手を引くようにして公園の奥まで案内して下さった。

<span class="fontBold">吉備真備は学問だけでなく戦いにも秀でていた。政敵だった藤原仲麻呂が兵を挙げた際には、孫子の兵法を使って戦い、乱を鎮圧したといわれる。唐で学んだ経験を生かし、多くの功績を積んだ真備は、地方の豪族から右大臣へと上りつめた</span>(イラスト=正子公也)
吉備真備は学問だけでなく戦いにも秀でていた。政敵だった藤原仲麻呂が兵を挙げた際には、孫子の兵法を使って戦い、乱を鎮圧したといわれる。唐で学んだ経験を生かし、多くの功績を積んだ真備は、地方の豪族から右大臣へと上りつめた(イラスト=正子公也)

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