圀勝寺がある矢掛町は、真備町から小田川ぞいに西に10キロほど行った所にある。今は小田郡だが、かつては下道郡(しもつみちのこおり)に属していた。下道国造(こくぞう)家の勢力範囲だったと思われる。

 寺に保存されている真備の祖母の銅製骨蔵器は、矢掛町東三成の丘から発見されたもので、ここが下道氏の墳墓の地であったことが分かっている。

 骨蔵器のふたには、大略次のようなことが記されている。

 「和銅元年(708)11月27日に銘す。下道圀勝(くにかつ)、弟圀依(くにより)朝臣、右二人の母夫人の骨蔵器にして、故知の後人、移し破るべからず」

 真備の父圀勝、叔父圀依の名が明記され、1300年以上たった今も残っている。真備はこの年14歳だったが、父に連れられて葬儀に参列したことだろう。

 圀勝の年齢は定かではないが、25歳で真備をさずかったと仮定すると、西暦670年の生まれになる。

 白村江の戦いで大敗して7年後で、日本中が大唐国が攻めて来るという危機感に包まれていた。圀勝という名は、そうした時代の空気を反映してつけられたのだろう。

 しかも圀という文字や火葬、銅製ということが、この時代と下道氏の立場を読み解く手がかりとなっている。

 圀は国の字をもとにし、中国唯一の女帝である則天武后(玄宗皇帝の祖母)が作った則天文字と呼ばれるものだ。よく知られているのは水戸光圀の例だが、国ではなく圀を使ったのは特別のこだわり(おそらく呪術的な)があったからだと思われる。

 しかも則天文字を制定したのは、載初元年(689)のことだから、下道氏はわずか19年後にその文字を使っていることになる。

 また日本で初めて火葬が行われたのは、700年に他界した元興寺の僧道照からで、702年に亡くなられた持統天皇も火葬にふされたという。真備の祖母が火葬されたのは、それからわずか6年後である。

 銅の使用も注目すべきことだ。国産銅が朝廷に献じられたのは、文武天皇2年(698)が最初である。慶雲5年(708)正月には大量の銅が武蔵国秩父郡から献じられたので、和銅と改元したことはよく知られている。

 その年に下道氏が、銅製の骨蔵器を使うことができたのはどうしてだろう。朝廷より早い時期に銅を使いこなすことができる資源と技術を持っていたか、それとも都で売られていた骨蔵器を買うことができたとしか考えられない。

 いずれにしても最新の技術と情報を入手できる地位にいて、それを使いこなす見識と経済力があったということだ。それは下道郡が瀬戸内海航路の要地を占めていて、都とも水運によって密接に結ばれていたために可能になったことなのである。

 ついでながら真備の母の墓誌も発見されている。江戸時代半ばの享保13年(1728)、大和国宇智郡大沢村(奈良県五條市)の山中から、近くの農民が壺などと共に12枚の塼(せん)(板状の瓦)を掘り出した。

 その中の1枚に「下道朝臣真備葬、亡き母楊貴(やぎ)氏の墓、天平11年(739)8月12日記」と記されていたのである。

 この塼は現在行方不明になっていて、偽物ではないかという疑いもあるというが、真備の祖母が八木氏(近鉄大和八木駅の一帯を本拠地とした一族)の出身であることは確実なので、本物である可能性が高いのではないだろうか。

<span class="fontBold">日本の歴史の中で、学者でありながら、政治の要職である右大臣を務めたのは菅原道真と吉備真備。2人は共に「学問の神様」としても尊敬を集め、真備の廟である吉備公廟には、道真を祀る東京の湯島天神や京都の北野天満宮と同様に、多くの受験生らが合格祈願に訪れる</span>(イラスト=正子公也)
日本の歴史の中で、学者でありながら、政治の要職である右大臣を務めたのは菅原道真と吉備真備。2人は共に「学問の神様」としても尊敬を集め、真備の廟である吉備公廟には、道真を祀る東京の湯島天神や京都の北野天満宮と同様に、多くの受験生らが合格祈願に訪れる(イラスト=正子公也)

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