玄宗皇帝といえば、どなたも楊貴妃との悲恋を思い出されることだろう。息子の李瑁(りぼう)の妻となった楊玉環に魅せられた玄宗は、2人を離婚させたのちに玉環を貴妃として後宮に迎えた。
そして彼女を喜ばせるために贅沢(ぜいたく)の限りを尽くしたばかりか、ほとんど何の功績もない一門の楊国忠を宰相に任じ、政務を取り仕切らせた。
そのために国が乱れ、やがて安禄山の叛乱を招くことになる。玄宗と楊貴妃は長安を脱出して四川省に向かうが、馬嵬(ばかい)(陝西省咸陽市)にさしかかった時、警護の将兵が楊貴妃を殺せと玄宗に迫る。そこで玄宗は側近の宦官である高力士に命じて、彼女をくびり殺した。
この故事は白居易の「長恨歌」に詠(うた)われたことで人口に膾炙(かいしゃ)し、悲恋物語として記憶されることになったが、玄宗が楊玉環と初めて会ったのは54歳、貴妃にしたのは61歳の時である。

則天武后、お気に入りの孫
玄宗の名は李隆基という。彼がそれまでどんな人生をたどってきたのか、簡単に触れてみたい。
西暦685年の生まれなので、祖母の則天武后が朝権を掌握した頃である。武后が女帝として即位し、国号を周と改めたのは690年のことだが、まだ6歳になったばかりの李隆基は政治の本質など知る由もなかっただろう。
子供の頃から聡明、活発で、武后にはひときわ気に入られたようだ。皇太子に任じられていた伯父の李弘(りこう)の養子になっているので、将来は皇位につけようという意図があったのかもしれない。
市中に忍び出て、気軽に庶民と交わっていたらしく、703年に留学僧として日本から唐に渡った弁正(べんしょう)と囲碁仲間になったことはよく知られている。
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