則天武后(武則天)と言えば、洛陽の南郊にある龍門石窟の盧舎那仏(るしゃなぶつ)を思い出される方が多いのではないだろうか。
石壁に彫られた巨大な像は、武后が自分の顔に似せて作らせた(諸説あり)というが、顔立ちは知的でエキゾチックで美しい。
日本の遣唐使たちはこの容顔を写し取り、奈良の大仏を作る時の参考にしたと伝えられている。
武后は無字碑を残したことでも知られている。普通、墓誌には死者の経歴や功績をこと細かに刻み込むが、武后の碑には何も書かれていない。彼女が何も書くなと遺言したために、乾陵(けんりょう)の墓前に石塔だけが建てられたのである。
唐の都だった西安市(旧長安)を訪ねた方は、七層からなる高さ64メートルの大雁塔を見て、その大きさと形の美しさに圧倒されたことだろう。
これは玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像などを納めるために、三代皇帝である高宗(則天武后の夫)が建てたものだが、その時には版築(はんちく)(土を突き固める工法)で築き、外側を磚(せん)(レンガ)でおおっただけだったので、50年ほどで崩れてしまった。
そこで武后が長安年間(701~705)にすべてレンガ造りの塔に建て直したので、1300余年後の今日まで残ることができた。
そうした経済力や技術力を見れば、武后の力量と唐(当時は武周)の繁栄ぶりがよく分かる。
武后は儒教の影響が強く、男尊女卑の伝統が長い中国に登場したただ一人の女帝である。しかも唐を乗っ取って武周朝を打ち立てたこともあって、長い間否定的にとらえられてきた。
呂雉(りょち)や西太后と並んで中国三大悪女に数えられることもあるが、彼女の功績を見れば、そうした評価が的を射ていないことは明らかである。
中国四千年と言われる歴史の中で、どうして武后だけがそうした生き方を貫くことができたのだろうか?

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