西暦704年、粟田真人(あわたのまひと)は日唐国交回復をなしとげて帰国した。

 663年の白村江の戦い以来断絶していた両国関係を正常化したのだから、現代にたとえるなら田中角栄首相が1972年に日中共同声明の調印に成功し、国交回復の道筋をつけたような快挙である。

 真人は帰国後、この功績を賞されて田20町、穀1000石を与えられたばかりか、議政官である中納言に任じられたが、国交回復に当たって唐側が示した条件は厳しかった。

 この時代に国交を結ぶとは、対等な外交関係を築くことではない。唐の皇帝が天命を受けて治める勢力圏に入れてもらい、皇帝に貢 物をして冊封国になることだから、唐の指示に従って冊封国にふさわしいように国内の体制を整備しなければならなかった。

 (それでは日本は、唐の従属国になったのか)

 そんな疑問を持たれる方も多いと思う。日本史の学者の中には、臣下の礼を取ったことを示す文書や記録がないので、あくまで対等な関係だったと主張される方も多い。

 ところが冊封国になること自体が、唐の皇帝に貢物をして臣従することだから、これは屁理屈だと私は思っている。

 それに当時の大和朝廷は唐では臣従を誓い、国内では皇帝と天皇は対等だと主張するために、両者の間で取り交わされた国書を隠蔽(いんぺい)していたふしがある。

 臣従を誓わなければ冊封国に加えてもらえず、遣唐使を送ることも貿易をすることも不可能である。

 しかし臣従していると公にすれば天皇の権威に傷がつくし、自分が皇帝の臣下になって日本の支配者になろうと企てる不届き者も現れかねない。

 こうした問題に直面した大和朝廷は、外には臣従、内には対等というダブルスタンダードで乗り切ることにしたのである(これは今日の日米関係の雛型(ひながた)のようだと思うのは、筆者だけだろうか)。

 国交回復に当たって唐から求められたのは、おそらく次の4点だったと思われる。

  • 一、律令制度の導入
  • 二、仏教の教えに基づく統治
  • 三、国史を編纂して大和朝廷の正統  性を明らかにすること
  • 四、長安型の都城の建設

 しかも唐は遣唐使に返答使を同行させ、整備の進み具合をチェックしたのだから、朝廷は目に見える形で結果を出さなければならなかった。

 それがいかように行われたか、第四の都城建設に絞って温(たず)ねてみたい。この大仕事を任されたのが、阿倍比羅夫の子宿奈麻呂(すくなまろ)だからである。

<span class="fontBold">阿倍宿奈麻呂は白村江の戦いで水軍の大将を務めた阿倍比羅夫の子。新都建設の重責を担い、2年という短期間で平城京を造り上げた。安部氏は小説『平城京』でもこの国家プロジェクトの物語を描いている</span>((イラスト=正子公也))
阿倍宿奈麻呂は白村江の戦いで水軍の大将を務めた阿倍比羅夫の子。新都建設の重責を担い、2年という短期間で平城京を造り上げた。安部氏は小説『平城京』でもこの国家プロジェクトの物語を描いている((イラスト=正子公也))

次ページ 完成から16年で遷都