戦争の悲惨さは戦っている最中に犠牲者を出すことばかりではない。戦争が終わった後にも多くの対立や傷跡を残す。

 昭和20年の敗戦から76年がたった今も韓国とのあいだで徴用工や従軍慰安婦の問題を解決できていないし、北朝鮮とは国交さえ結べていないことが、問題の深刻さを物語っている。

 西暦663年の白村江の戦いの後にも、同じような問題が起こった。

 ひとつは百済が滅亡したために、大量の難民が日本に亡命してきたことだ。敗戦から一月ほど経った9月25日には百済の高官や将軍たちが、「船を発して、はじめて日本に向かった」と『日本書紀』は伝えている。

 その後も665年に男女400余人、翌年には男女2000余人、669年には男女700余人が亡命し、大和朝廷から官位や土地を与えられて日本に定住することになった。

 合計3100余人だが、当時の日本の人口は500万人ほどと推定されているので、現代の人口に比して考えれば20倍強の人数を受け入れた感覚だったろう。

 しかも朝廷が把握していない亡命者もかなりの数に上ったはずで、敗戦後の混乱をきたしていた日本にとって大きな負担になったはずである。

 ところが無理を忍んで受け容れたことが功を奏し、百済人たちの先進的な知識や技術が、やがて日本の発展に大きく寄与することになった。

 もうひとつの問題は、白村江の戦いで多くの日本人兵士が捕虜となり、唐に連行されたことである。

<span class="fontBold">日本と唐を結んだ遣唐使船は全長30メートルほどだったと推定される。一行は2隻または4隻の船に乗り海を渡った。当初は新羅を経由する北路を通ったが、唐と新羅の関係が悪化してからは、南側の航路を通った</span>(イラスト=正子公也)
日本と唐を結んだ遣唐使船は全長30メートルほどだったと推定される。一行は2隻または4隻の船に乗り海を渡った。当初は新羅を経由する北路を通ったが、唐と新羅の関係が悪化してからは、南側の航路を通った(イラスト=正子公也)

 彼らを帰国させることは大和朝廷にとって大きな課題であり、665年に第5次、667年に第6次、669年に第7次の遣唐使(次数については諸説あり)を送ったのは、戦後処理と日唐和平について話し合う為だったと思われる。

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