阿倍仲麻呂が生まれた家は、孝元天皇の皇子大彦命(おおびこのみこと)を始祖とすると伝えられ、一門の中には大臣に任じられた者も多い。

 祖父比羅夫は白村江の戦いに水軍の大将として出陣し、伯父(父の兄)宿奈麻呂(すくなまろ)は平城京造営の責任者を務めている。

 仲麻呂が育った環境や時代背景を知るためにも、阿倍家3代の生き様を簡単にたどってみたい。

 まずは比羅夫。彼は西暦610年頃に生まれたと推定される。隋が中国を統一し、618年に唐がそれを引き継ぐ激動の時代である。

 大和朝廷は630年に第1回遣唐使を送って、唐の強大さを目の当たりにした。そこで一刻も早く国内を統一して国力を充実させようと、奥州の蝦夷や九州の隼人を服属させるための出征をくり返すようになる。

 こうした状況の中で対蝦夷計略を担当したのが、越後の国司として赴任していた比羅夫だった。

 658年4月、比羅夫は180隻の軍船をひきいて奥州に向かい、飽田(秋田)、淳代(能代)の蝦夷を服属させることに成功した。

<span class="fontBold">飛鳥時代の将軍、阿倍比羅夫(生没年不詳)は東北さらに北海道に及ぶ地域に攻め入り、蝦夷を攻略した。その勇壮な戦いの姿は、青森のねぶた絵にも描かれる。さらに唐や新羅との戦いなど、日本海を舞台に武勇で名を残す</span>(イラスト=正子公也)
飛鳥時代の将軍、阿倍比羅夫(生没年不詳)は東北さらに北海道に及ぶ地域に攻め入り、蝦夷を攻略した。その勇壮な戦いの姿は、青森のねぶた絵にも描かれる。さらに唐や新羅との戦いなど、日本海を舞台に武勇で名を残す(イラスト=正子公也)

 そして北海道(と思われるが諸説あり)に進出していた粛慎(みしはせ)(アムール川流域を拠点とするツングース系民族)と戦い、生きているヒグマ2匹とヒグマの毛皮70枚を戦利品として朝廷に献上した。

 翌年3月、比羅夫は再び軍船180隻をつらねて奥州へ向かい、蝦夷の族長たちを饗応して関係の強化をはかった。

 3年目の660年3月には軍船200隻をつらねて北海道に渡り、粛慎の圧迫を受けていた蝦夷たちを救うために敢然と戦いを挑んだ。そして樺太のあたりまで追い払い、北海道を守り抜くことに成功したのである。

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