大坂夏の陣で豊臣家は滅び、江戸幕府の治政は安定期に入った。
摂、河、泉3州を支配し、秀吉の遺産や大坂での交易などによって莫大な経済力を持っていた豊臣家を滅ぼしたことで、幕府は後顧のうれいなく幕藩体制の構築に邁進(まいしん)することができるようになったのである。
大坂の陣の発端は、慶長19年(1614)に起こった方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件だった。幕府は鐘銘に記された「国家安康、君臣豊楽」の文字が、徳川家康の名を分断して呪詛(じゅそ)したものだと言いがかりをつけ、豊臣家に弁明と服従を強いた。
幕府との交渉に当たった片桐且元(かつもと)は9月18日に大坂城にもどり、幕府の了解を得るには豊臣秀頼の江戸参勤か、淀殿を人質として江戸へ送るか、大坂からの国替えを認めるしかないという調停案を示した。
秀頼と淀殿はこれに激怒。且元を裏切り者だと決めつけて大坂城から追い出し、10月2日から豊臣恩顧の大名や浪人に檄を飛ばして合戦準備に突入した。
家康と将軍秀忠は即座に出陣し、両軍は11月19日の木津川口の戦いを初めとして、大坂城周辺の砦(とりで)で激突することになる。幕府方の軍勢20万。豊臣方はおよそ10万で、30日から大坂城に籠城して持久戦に入った。
12月20日には大坂城の堀を埋めることなどを条件に和議が成立したが、翌年3月には大坂城内の浪人の扱いをめぐって幕府と豊臣家の間で対立が起こった。そして4月26日に豊臣方の先制攻撃によって戦端が開かれ、5月8日の秀頼らの自刃によって大坂城は落城する。
周到な準備がなされた?
まさに戦国時代の終わりを告げる華々しくも哀しい戦いで、私もこれまで大坂の陣を主題とした小説を2度書いたことがあるが、執筆当時から不思議だと思っていたことがあった。
ひとつは豊臣家が開戦と決めてから一月ばかりの間に、10万人近い将兵が大坂城に集まったことだ。一般的には関ヶ原の戦いで主家を失ったり改易されたりした大名家の家臣たちが、浪人となって巷にあふれていたからだと説明されている。
確かにそうしたこともあるだろうが、豊臣家の号令一下、諸将が整然と隊列を組んで大坂城に入城しているところを見ると、事前に周到な準備がなされていたとしか思えない。
当時、幕府は豊臣家の封じ込めを狙って、彦根城、伊賀上野城、亀山城(亀岡市)などの大坂城包囲網を築いていたし、浪人たちの動向や武具の所持については厳しく目を光らせていただろう。その監視の目をかいくぐり、一月の間に10万もの軍勢を組織できたのはどうしてなのか。
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