イエズス会の東インド巡察師として来日したアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、1539年にナポリ王国の名門貴族の家に生まれた。
父は枢機卿大司教という高い地位にいて、ローマ教皇パウロ4世とも親しかった。そこでヴァリニャーノも聖職者をめざし、ヴェネツィアのパドヴァ大学に入学した。
卒業後には聖職者として順調な出世をとげていたが、庇護(ひご)者だったパウロ4世が死去したために、前途に暗雲が垂れ込めた。そこでもう一度大学にもどり、法律学を学び直して学者の道に進むことにした。
ところが23歳の冬、思いがけない事件に巻き込まれた。大学の近くの酒場にくり出していた時、フランチェスキーナという若い女性と口論になり、顔を14針もぬう大怪我を負わせたのである。
このため暴行罪に問われ、町から追放されたヴァリニャーノは、27歳の時に再起を期してイエズス会員となり、ローマ学院で神学、哲学、数学、物理学を学んだ。そして1570年、31歳で念願の司祭に任じられた。
その3年後に東アジア巡察師に抜擢(ばってき)され、1574年3月にポルトガルのリスボンを出港。途中インドに立ち寄って巡察を行い、1579年7月に島原半島の口之津に上陸した。
京都に着いたのは1581年2月。織田信長が内裏の東側で催した馬揃えに参加することを目的とした上洛だった。信長は左義長(さぎちょう)(小正月に行う火祭り)を天皇の上覧に供する名目で馬揃えを挙行したが、本当の狙いは天皇臨席のもとに大々的な軍事パレードを行い、自分の軍事力とこの国の支配者であることをヴァリニャーノに見せつけ、この先の交渉を有利に進めることにあった。
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