今回から徳川家康と彼が生きた戦国時代について語らせていただきたい。彼の一代記を書こうと決意し、私は2015年から今年まで4回にわたって『家康』(幻冬舎文庫)を地方新聞に連載してきた。

 家康が桶狭間の戦いに出陣するところから筆を起こし、豊臣秀吉の朝鮮出兵に加わるために肥前名護屋城に布陣するまでを書き終えた。これから慶長伏見地震や秀吉の死、関ヶ原の戦い、幕府創建、大坂の陣などを描くので、全部で原稿用紙6000枚になる予定だ。

 家康に取り組む理由は2つある。ひとつは従来の戦国時代史の解釈は大きく間違っていて、これを何とか正したいと思ったことだ。それには桶狭間の戦い(1560)から大坂夏の陣(1615)まで、戦国時代の主要な戦いに主役級の立場で関わっている家康を描けばいいと気付いた。

 もうひとつは、戦国時代の小説を30年以上書きつづけてきたお陰で、家康の生き方の本当の意味が分かったことだ。それを世に問うことが、混迷を深める日本と世界を再生させるきっかけになると思ったのである。「従来の戦国時代の解釈は間違っている」。そう言えば読者諸賢は、「こいつ、何を言うとるんや」と冷笑されるかもしれない。しかしそれは事実であり、その誤りを正さなければ織田信長や秀吉、家康の本当の姿は見えてこないのだから、浅学非才をかえりみずに言わずにはいられない。

 間違いの原因のひとつは、江戸時代の史観をいまだに引きずっていることだ。その主たるものは鎖国史観、身分差別史観、儒教史観である。

 江戸幕府は鎖国政策をとったので、国民には外国の事情をなるべく知らせないようにした。そのために戦国時代も国内だけの視点に限定して解釈した。

 ところが戦国時代の本質は、日本が初めて西洋と出会ったことにある。レコンキスタ(再征服)を成し遂げ、イスラム世界だったイベリア半島をキリスト教化したスペインとポルトガルは、世界への布教と征服に乗り出して大航海時代を招来した。

 その象徴がコロンブスのアメリカ大陸到達と、バスコ・ダ・ガマのインド航路の発見で、1494年に結ばれたトルデシリャス条約によって地球の西半分はスペイン、東半分はポルトガルの活動領域だと定められた。

 これによって両国は布教の名のもとに世界各地を征服し、富の収奪をつづけていく。この波が日本に及んだのが、1543年の鉄砲伝来と1549年のフランシスコ・ザビエルの来日である。

 戦国時代だから鉄砲やキリスト教が伝来したのではない。ポルトガルが日本に鉄砲を売り込み、イエズス会がザビエルを送り込んで布教に乗り出したために、戦いの様相が従来と一変し、戦国時代を激化させたのである。

 鉄砲の使用は硝石と鉛の輸入がなければ不可能である。これをポルトガルの商人から買い付けるには、イエズス会の仲介とポルトガルとの外交が必要になる。

 そして両者との関係を円滑に保ちえた者だけが、硝石と鉛を優先的に買い付けて鉄砲を使用し、技術的な指導を受けられたのだから、国内的な視野だけで戦国大名の優劣を語ることには意味がないのである。

経済体制を改革した信長

 室町幕府の守護大名が没落し、戦国大名が台頭した原因は産業構造の転換にある。室町時代の守護領国制は、基本的には農本主義である。鎌倉幕府の制度を受け継ぎ、武家は農地と農民を支配し、商業や流通業は寺社や公家が座を作って支配した。

 ところが南蛮貿易が盛んになり、国内で商品や貨幣の流通量が増えると、農本主義から重商主義への転換が起こり、農地を支配する者より、流通を支配して経済力を持った者のほうが勢力を持つようになった。

 信長がその典型で、楽市楽座を押し進めたのは、市や座の支配権を持つ寺社や公家の特権を奪い、領国を一円支配(すべての分野を支配すること)するためだった。