楊国忠の本名は釗(しょう)。『長恨歌』の掉尾(とうび)を飾る(?)奸臣(かんしん)として知られている。
若い頃は酒と博打(ばくち)にうつつを抜かす不良だったが、30歳の頃に蜀(四川省のあたり)の地方軍に入って頭角を現した。軍隊の任期が終わると、蜀の大富豪の食客となって日々を過ごしていた。
そんな時、遠縁の楊玄琰(ようげんえん)が死んだと知り、その家を支えると称して入り込んだ。楊釗にとって玄琰は父の従弟(いとこ)という薄いつながりだが、儒教的な伝統がある唐においては、こうした慣例があったものと思われる。
玄琰には4人の娘がいた。末娘の玉環(ぎょくかん)(後の楊貴妃)が絶世の美女であり、玄宗皇帝の寵愛を受けたことから、楊釗も思わぬ運が開けることになる。
玉環の3人の姉は後に韓国婦人、虢国(かくこく)夫人、秦国夫人の称号と地位を与えられるが、楊釗は4姉妹の家に入り込んだ時から虢国夫人と密通していたという。
天宝4載(745)に玉環が玄宗の貴妃になると、剣南節度使を務めていた有力者が貴妃に接近しようとして楊釗に使いを頼んだ。楊釗は虢国夫人との仲を利用して貴妃と接近することに成功したばかりか、玄宗にまで気に入られて長安守護の軍隊の参軍(将軍の幕僚)に任じられた。
博打好きが功を奏したのか、楊釗は経理や計算の才に長(た)けていて、出納官として玄宗から高く評価され、監察御史(官僚などの不正を取り締まる役職)に抜擢(ばってき)された。
これ以後、宰相の李林甫にうまく取り入り、権謀術数を駆使して競争相手を追い落とし、天宝11載には林甫の死に乗じて中書令(宰相)の地位を我が物とした。こうした立身の背景には、貴妃の親戚(親代わり)という立場があったことは言うまでもない。
やがて玄宗から国忠の名を与えられ、楊一門の天下といわれるほどに権勢をきわめるが、強大な軍事力を持つ安禄山と対立するようになる。この対立がやがて安禄山の反乱を引き起こすことになり、天宝15載(756)に楊国忠も楊貴妃も馬嵬(ばかい)駅(陝西省興平県)で殺されたのである。

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