中国語で友人のことを朋友(ポンヨー)という。この言葉は日本にも伝わって「あいつは俺のポン友だ」といった使い方をされるが、中国でこの言葉の持つ意味はもう少し重いようである。

 生死を共にする友人、生涯助け合う友人、絶対に裏切らない関係。そうした深くて強い絆を朋友と呼ぶと、中国で教えてもらった。

 「安部さん、それはね、中国人の保険のようなものです」

 そう言ってにやりと笑う人もいた。

 王朝の移り替わりが激しく、異民族に支配されることも多かった中国では、政争に敗れて失脚し、生活の基盤を根こそぎ奪われることがたびたび起こった。そうした危機に直面したなら、何もかも捨てて逃げ出すしか生き延びる道はない。そんな時に助けてくれるのが朋友だから、保険とは言い得て妙なのである。

 玄宗皇帝に仕える2人の宰相、張九齢と李林甫の対決もいよいよラウンドが進み、倒すか倒されるかの局面に入ってきた。そして清廉潔白を旨とする九齢は、玄宗に取り入り巧みな遊泳術を駆使する林甫に次第に追い込まれていく。

 きっかけは些細なことだった。

 九齢と親しい厳挺之(げんていし)は妻を離別していた。その妻は蔚州刺史(うつしゅうしし)の王元琰(おうげんえん)と再婚していたが、元琰は汚職事件を起こして罷免(ひめん)された。これを知った挺之は、前妻の身が立つようにと奔走したが、林甫はこれを罪人に加担する行為だと訴えたのである。

 玄宗はこの訴えを取り上げて宰相会議に処分を問うた。九齢と裴耀卿(へいようけい)は「挺之は元の妻への義理からそうしただけで、汚職事件とは何の関係もない」と主張した。しかし林甫は「罪を犯して処分された者の妻を庇うとは、お上の裁きに異をとなえるも同じだ」と反論した。

 これに玄宗も同意し、挺之を洺州(めいしゅう)刺史に左遷したばかりか、挺之を庇った2人にも罪があるとして、九齢を右丞相(うじょうしょう)、耀卿を左丞相(さじょうしょう)に降格し、政務に関わることを禁じた。

 代わりに林甫を中書令に任じ、林甫が推す牛仙客(ぎゅうせんかく)を工部尚書(こうぶしょうしょ)に昇格させ、政務を取り仕切らせることにした。

 これを見た朝廷の役人たちは<皆身(み)を容(い)れ位(くらい)を保ち、復(ま)た直言する無し>。保身に汲々として直言する者はいなくなったと、『資治通鑑(しじつがん)』は伝えている。

 こうした状況を見て憤慨した漢(おとこ)がいた。官吏や行政を監察する監察御史(かんさつぎょし)の地位にあった周子諒(ちょうしりょう)が、牛仙客は出自に問題があるので尚書にふさわしくないと訴えた。

 ところが玄宗はこの訴えを取り上げなかったばかりか、子諒が讒言(ざんげん)をしたとして杖刑(じょうけい)(杖で叩く刑)に処し、辺境へ流罪にした。

 しかも林甫は、子諒を監察御史に推薦したのは九齢だったと訴え、九齢を荊州(けいしゅう)(湖北省)の大都督府長吏(ちょうり)という閑職に追いやった。

 これは従四品上の位で、正二品の宰相からすれば六階級の降格となる。現代の日本にたとえるなら、元首相が地方の市町村長に降格されたようなものだろう。

 九齢は科挙の進士科に合格した秀才であり、唐では名を知られた詩人だった。彼が老いた自分を詠んだ『照鏡見白髪』(鏡に照らして白髪を見る)という詩がある。