科挙の試験に合格した官僚たちをひきいる張九齢(ちょうきゅうれい)、門閥派のリーダーである李林甫(りりんぽ)。2人の対立は開元23年(735)の冬になって新しい局面を迎えた。林甫は玄宗皇帝への影響力や政治における指導力では九齢にかなわないと見て、新しい方策を講じたのである。

 当時、玄宗から寵愛(ちょうあい)されていた武恵妃は、王皇后を蹴落とすことに成功し、何とか皇后の位につこうと画策していた。ところが武恵妃の祖父は、唐王朝を廃して武周朝を打ち立てた則天武后の従兄弟だった。

 そのため唐王朝に仇(あだ)をなした者の子孫と見なされ、正室である皇后にするには不適格だという意見が大勢を占めた。

 そこで武恵妃は、息子の寿王李瑁(りぼう)を東宮(皇太子)にし、やがては皇帝の母になって皇太后の地位を得ようと考えた。しかし、すでに玄宗の次男である李瑛(りえい)が東宮になっているので、これを蹴落とさなければ野望は実現しない。

 どうしたものかと思い悩んでいた武恵妃に、林甫は影のように忍び寄ってささやいた。

 「李瑁さまのほうが、李瑛さまより優秀で人望もあります。私も李瑁さまを東宮にするべきだと考えていますので、協力して実現いたしましょう」

 こうして2人の密約は成立し、この年12月にひとつの実を結んだ。林甫が武恵妃の母方の楊氏の中から絶世の美女を見つけ出し、李瑁の妻に迎えたのである。

 名は楊玉環(ようぎょくかん)。後に玄宗は彼女を楊貴妃にして溺愛したのだから、「腹に剣あり」と言われた林甫はそこまで計画に入れていたのかもしれない。

 「正論で九齢にかなわないなら、情実と欲をあおって皇帝をからめとってやる」

 そんな密計を立てていた気がする。

<span class="fontBold">武恵妃に取り入り、さらに玄宗の意を察した発言で朝廷での権勢を伸ばした李林甫。対立する人物を排斥するため、安禄山ら異民族を重用するよう玄宗に進言した。だが安禄山らが強大な軍事力を握ったことで安史の乱が起こり、唐朝は衰退していく</span>(イラスト=正子公也)
武恵妃に取り入り、さらに玄宗の意を察した発言で朝廷での権勢を伸ばした李林甫。対立する人物を排斥するため、安禄山ら異民族を重用するよう玄宗に進言した。だが安禄山らが強大な軍事力を握ったことで安史の乱が起こり、唐朝は衰退していく(イラスト=正子公也)

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