安倍文殊院がある安倍山丘陵は古墳の宝庫である。
前回紹介させていただいた西古墳のほかにも、東古墳、谷首古墳、コロコロ山古墳、中山古墳群、フジヤマ古墳群、艸墓(くさはか)古墳、風呂坊古墳群、稲荷東古墳群、稲荷西古墳群などが密集している。
これらは6世紀初めから7世紀末にかけて築かれたもので、墳丘の規模は比較的小さい。ところが丘陵の北東には4世紀初めに造られた桜井茶臼山古墳、南にはメスリ山古墳という国内でも最大級の古墳がある。
桜井茶臼山古墳は全長207メートル、メスリ山古墳は224メートルの前方後円墳で、大和川の北側にある箸墓(はしはか)古墳などと同じ時代に築かれたものだと考えられている。
つまり阿倍氏は大和朝廷の草創期から、2つの巨大古墳を築くほどの重要人物を輩出し、朝廷の要職をになっていたということである。

文殊院の本堂で渡海文殊群像を拝してから、東古墳を訪ねた。こちらの石室は加工されていない自然石が使われていて、7世紀前半の阿倍氏の当主の墓ではないかと見られている。
不思議なことに古墳の羨道(せんどう)部には井戸があり、閼伽井(あかい)の窟と呼ばれている。閼伽井とは閼伽水(仏に献げる聖水)の井戸という意味で、ここの水を飲めば煩悩の垢を洗うと信仰されてきた。
「お水取り」と大仏建立
閼伽井といえば、東大寺の二月堂で行われる「お水取り」の時に使われる閼伽井屋を思い出される方も多いのではないだろうか。
ここの井戸は若狭井(わかさい)とも呼ばれ、若狭国(福井県小浜市)の神宮寺の近くを流れる遠敷(おにゅう)川から流した水がここまで送られたという。そのため神宮寺では3月12日のお水取りの神事に合わせ、3月2日にお水送りの神事が行われている。
日本の古代史にも造詣が深い某推理小説家は、これは実際にあったことだと論じたことがあった。中央アジアの砂漠地帯には、雪解け水が蒸発することを防ぐためにカナートという地下水路を用いる伝統がある。そうした水路によって若狭と奈良が結ばれていたと推理したのである。
途中には琵琶湖があるのだから、それはいくらなんでも無理ではないか。今ならそう思うが、若い頃にこの説を知った時には、「この先生の説なら正しいのではないか」とワクワクしたものである。
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