安倍寺跡の規模は東西約180メートル、南北約220メートル。サッカーコートの5倍ほどの広さである。

 東に金堂、西に塔、北に講堂があり、まわりを廻廊で囲まれていた。創建の時期は7世紀中頃で、屋根に使われていた瓦の形状から、近くにある山田寺や吉備池廃寺と同じ頃に造られたことが分かっている。

 山田寺は舒明天皇13年(641)から造営が始められたことが分かっているので、安倍寺もこの頃に造られ始め、大化改新の政変をまたいで造営がつづけられたものと思われる。

 造営主は阿倍倉梯(くらはし)麻呂と考えられている。彼は孝徳天皇の即位(645)に際して左大臣に任じられ、娘の小足媛を天皇の妃にしている。天皇の信任を得て朝政にのぞみ、中大兄皇子や中臣鎌足が企てた蘇我氏の打倒に加担したのだろう。その後も朝廷において重きをなしたが、大化5年(649)に他界している。

 阿倍氏の氏寺として建立された安倍寺は、鎌倉時代に焼失し、北東にあった安倍寺別所に再建された。これが安倍文殊院となって現在までつづいている。

<span class="fontBold">文殊菩薩は知恵をつかさどり、物事の正しさを見極める力や判断力に優れるとされる。獅子に乗る「騎獅文殊菩薩」は獅子を乗りこなすほどの賢さを示すと考えられている。安倍文殊院の文殊菩薩像は快慶の作で、国宝に指定されている</span>(イラスト=正子公也)
文殊菩薩は知恵をつかさどり、物事の正しさを見極める力や判断力に優れるとされる。獅子に乗る「騎獅文殊菩薩」は獅子を乗りこなすほどの賢さを示すと考えられている。安倍文殊院の文殊菩薩像は快慶の作で、国宝に指定されている(イラスト=正子公也)

 安倍寺跡の西隣には阿倍氏の邸宅跡があり、北側には谷遺跡と呼ばれる集落跡が広がっている。

 遺跡からは古代氏族の邸宅を思わせる、計画的に配列された大型掘立柱の跡や、鉄や玉などの工房があったことを示す遺物が発見されている。

 鍛治関連遺物は5世紀末から6世紀代にかけてのもので、竪穴式住居の跡も見られるので、工房で働く職人が住んでいたと考えられている。

 その北側からは同時期のものと思われる碧玉、水晶、滑石の破片や未成品が多数出土していて、玉造りなどに従事する者たちは鍛冶職人とは区画を分けて住んでいたようである。

 こうした発見によって、阿倍氏が先端技術を身につけた職人集団を持ち、鉄や玉の生産によって大きな経済力を得ていたことが分かってきた。

 また鉄や玉の原料は、遠くから海上輸送によって運ばれていたことを考えれば、阿倍氏が水軍を持って交易や外交に従事していた理由も納得できる。

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