地元の長崎県平戸市にある父のカメラ店で働くようになり、忙しい日々を過ごした。責任者として展開した佐世保市の店舗を引き継いで「たかた」を設立。プリントサービスで成長した。自身が見つけた鉱脈を奪われても、「現実を受け入れ、今を懸命に頑張る」という考えは変わらなかった。

<span class="fontBold">髙田 明 [たかた・あきら]氏</span><br>1948年長崎県平戸市生まれ。大学卒業後、機械メーカーを経て、父のカメラ店に入社。86年に分離・独立し、たかたを設立。99年にジャパネットたかたに社名変更。自ら通信販売で商品を紹介し、通販大手に成長させた。2015年に社長を退任し、経営を離れる。個人会社のA and Live(エー・アンド・ライブ)を設立した。(写真=菅 敏一)
髙田 明 [たかた・あきら]氏
1948年長崎県平戸市生まれ。大学卒業後、機械メーカーを経て、父のカメラ店に入社。86年に分離・独立し、たかたを設立。99年にジャパネットたかたに社名変更。自ら通信販売で商品を紹介し、通販大手に成長させた。2015年に社長を退任し、経営を離れる。個人会社のA and Live(エー・アンド・ライブ)を設立した。(写真=菅 敏一)

 私が生まれたのは長崎県の北西部にある平戸島。父が市街地で経営するカメラ店の2階で家族が暮らしていました。写真を撮る趣味が高じてカメラ店を経営するようになった父は新しいことが好きで、自宅にカラーテレビを入れるのもひときわ早かった。私が子どものころは近所の友達が20人ぐらい遊びに来て、一緒に正座してテレビを見たものです。

 大阪の大学への進学を機に平戸を離れた私は大学卒業後、京都の機械メーカーに入社。短期間ですが欧州駐在も経験させてもらいました。3年ほど勤めた後に退職。地元に帰ってみたら、父から「会社を辞めたのなら店を手伝ってほしい」と言われました。25歳で平戸に戻り、兄と弟も働いていた父のカメラ店で働き始めました。少し前の海外での生活とはずいぶん変わりましたが、私は切り替えが早いタイプ。平戸での仕事にすぐ集中しました。

 フィルムの現像や印画紙へのプリントをしたり、平戸市内を回ってカメラを販売したり。近くのホテルに出向いて観光客の記念写真を撮影するのも日課でした。当時の平戸はホテルが次々に建ち、観光客がどんどん訪れていましたから。それでもずっと順風満帆だったわけではありません。地元の選挙に巻き込まれ、あるホテルでの大口の仕事を突然失ったこともありました。

 平戸では商売の規模にどうしても限界があります。佐世保に営業所を置くことになり、30歳になった私が所長として赴任しました。父の店は兄が継ぐことになっていたので、私は37歳のとき、佐世保の店舗を引き継ぐ形で分離・独立して「たかた」を立ち上げました。これが後のジャパネットたかたです。同時に弟も分離・独立。兄弟3人がそれぞれの道に進むことになりました。

<span class="fontBold">佐世保の店舗を引き継ぎ「たかた」を創業。後にジャパネットたかたに社名変更</span>
佐世保の店舗を引き継ぎ「たかた」を創業。後にジャパネットたかたに社名変更

通販は頭の片隅にもなかった

 独立しても、私の仕事はほとんど変わりません。現像にプリント、個別訪問でのカメラ販売、そして佐世保市内や佐賀県の嬉野温泉の旅館やホテルを回っての撮影。毎日、忙しく駆け回っていました。通販会社になるとか、全国でビジネスを展開するとか、そんな考えはまだ頭の片隅にもありませんでした。

続きを読む 2/3 「伝えたい」との思い乗せた声

この記事は会員登録で続きをご覧いただけます

残り1052文字 / 全文2291文字

日経ビジネス電子版有料会員になると…

特集、人気コラムなどすべてのコンテンツが読み放題

ウェビナー【日経ビジネスLIVE】にも参加し放題

日経ビジネス最新号、10年分のバックナンバーが読み放題

この記事はシリーズ「ジャパネット創業者・髙田明氏の「不屈の路程」」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。