平井氏の初の著書『ソニー再生』を再構成し、ソニーグループの復活の道のりを振り返るシリーズの第2回。崖っぷちとも言える状況から脱するため、平井氏は痛みを伴う改革を進めていった。反発もある中で改革を断行するには、「異見」を言ってくれるプロの集団が必要と説く。
![<span class="fontBold">平井一夫[Kazuo Hirai]</span><br>ソニーグループ シニアアドバイザー。1960年東京生まれ。84年国際基督教大学(ICU)卒、CBS・ソニー入社。2006年ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCEI)社長。09年ソニーEVP、11年副社長、12年社長兼CEO、18年会長。19年から現職。(写真=的野 弘路)](https://cdn-business.nikkei.com/atcl/NBD/19/00144/090700002/p1.jpg?__scale=w:500,h:333&_sh=0570d702a0)
ソニーグループ シニアアドバイザー。1960年東京生まれ。84年国際基督教大学(ICU)卒、CBS・ソニー入社。2006年ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCEI)社長。09年ソニーEVP、11年副社長、12年社長兼CEO、18年会長。19年から現職。(写真=的野 弘路)
ソニーのターンアラウンドを進める上で最大のテーマのひとつとなるのが、赤字続きだったテレビ事業の立て直しだった。「低迷するソニー」の奥でふつふつと煮えたぎる情熱のマグマを解き放ち、もう一度この会社を輝かせてみせる──。「KANDO」の伝道師として世界を巡る中で決意を固めていった私だが、そこに至るまでにはどうしても避けられない痛みが存在するだろうことは、当初から覚悟していた。
テレビ事業は、私が社長に就任した時点で8年連続の営業赤字。かつてのソニーの看板商品はいつのまにか「ダメになったソニー」の象徴のようになってしまっていた。
ソニーは2009年11月に示した中期計画で、テレビの世界シェアを12年度までに20%にすると表明していた。世界の市場規模から逆算すれば年間4000万台に相当する。この「4000万台」という数字が幻影のようにつきまとっていたのだ。
その先に待っていたのは、韓国・中国勢との際限のない価格競争だった。言葉を換えれば、テレビはコモディティー商品だと自ら認めてしまったことが敗因だと言えるだろう。
この大前提を覆すことから、テレビ事業の再建は始まる。我々が最初に取りかかったのが4000万台構想の撤回だった。副社長としてコンスーマー事業全般を担当していた11年11月に販売目標を2000万台に引き下げると発表した。
台数を追わなくなるということは、販売ルートを絞ることを意味する。次に待っているのが販売会社の集約である。それはつまり、昨日までのパートナーを切ることになる。予想していたことではあるが、これには猛烈な反発の声が押し寄せてきた。
“ガオン”を磨いたテレビ
特に多かったのがソニー社内からの反発だった。販売会社のほとんどはテレビだけでなくデジタルカメラやビデオカメラなど他のソニー製品も扱っている。では、家電売り場の花形であるテレビの販売を絞るとどんなことが起きるのか。
販売会社はいわば仲卸のような形でウォルマートやベストバイなどの小売店にソニー製品を売っている。家電売り場の一等地とも言えるテレビの供給が絞り込まれると、どうしてもソニーブランドの製品全体の売り場が狭められてしまうというクレームが相次いだのだ。社内からはこんな批判が聞こえてくるようになった。「この商売はまず台数を売ることから始まるんだ。平井はエレクトロニクスのビジネスが分かっていない」
確かに私はエレクトロニクス事業に関しては素人かもしれない。だが、素人が考えても分かるほど明らかに、当時のソニーは「テレビの販売台数に依存した流通モデル」という積年の課題を抱えていると考えた。その結果がいつまでたっても止まらない赤字だった。身内の論理が先に立ってしまった結果と言える。この負の連鎖を断ち切らなければならない。
その一方で「テレビは必ず再生できる」とも考えていた。自ら飛び込んだコモディティー帯での勝負から一線を画して韓国勢や中国勢との差異化を進めれば、必ず光明が見えてくるという目算があったからだ。
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