入社直後の「左遷」から5年間の工場勤務を経て命じられた異動先は営業本部。しかし、ここでも会社の経営方針を巡って上司とぶつかり、窓際部署へと追いやられた。開き直って部下3人と結成した「川田軍団」を率い、自動車内装材のビジネスに挑んだ。

<span class="fontBold">川田達男[かわだ・たつお]氏<br />セーレン会長兼CEO(最高経営責任者)</span><br />1940年生まれ。62年明治大学経営学部卒業、福井精練加工(現セーレン)入社。70年代に自動車メーカーとの取引拡大に貢献。87年には経営が悪化したセーレンの社長に47歳で抜てきされる。社内改革を進め、2003年に社長兼COO(最高執行責任者)に就任。05年にはカネボウの繊維事業を買収してKBセーレンを設立する。14年から現職。(写真=山岸 政仁)
川田達男[かわだ・たつお]氏
セーレン会長兼CEO(最高経営責任者)

1940年生まれ。62年明治大学経営学部卒業、福井精練加工(現セーレン)入社。70年代に自動車メーカーとの取引拡大に貢献。87年には経営が悪化したセーレンの社長に47歳で抜てきされる。社内改革を進め、2003年に社長兼COO(最高執行責任者)に就任。05年にはカネボウの繊維事業を買収してKBセーレンを設立する。14年から現職。(写真=山岸 政仁)

 5年間の工場勤務を終えて1967年に異動した先は、大阪を拠点とする営業本部でした。着任して少したったころ、私はまたも上司にかみつきました。「本当の営業をやらなければいけません。このままでは絶対ダメになります!」と。当時の営業部門の仕事は、工場と顧客の間で注文書を運ぶだけの“メッセンジャーボーイ”。もっと製品を売れるようにするマーケティングとはほど遠い業務でした。

 上司は私の訴えにピンときていない様子でした。その後も声を上げ続けた私は、上司に反目する煙たい存在だったのでしょう。営業の仕事を5年続けて32歳になっても係長のまま。同期で課長に昇進していないのは私だけでした。そして、「御用聞きの仕事が嫌なら」ということで窓際部署への異動を命じられました。72年に移った「編物営業課製品開発グループ」です。

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