人より10年早く働き始めたのだから60歳で引退しようと思っていた。それを先延ばしにしてでも実現したい「株式上場」という目標に向けて突き進んだ。しかし、ものづくり一辺倒だった経営者にかかる心身の苦労は想像を超えていた。
私には、エーワン精密を立ち上げたときから決めていることがありました。同族経営にはしないことです。
中学校にも行かずに働き始め、町工場を渡り歩いたことは前にお話ししましたね。働いた町工場はどこも同族経営で、公私混同する場面を何度も見てきました。社長の息子が入社すると、たとえ私や他の社員より明らかに劣っていても周囲が「次の社長だ」と特別扱いすることにも違和感がありました。
1970年代中盤から主力製品を旋盤向けの工具であるコレットチャックに切り替えたことが功を奏し、エーワン精密は好業績が続きました。90年代に入ってもその勢いは衰えません。50歳を過ぎた私は、この時期から将来の引退について真剣に考えるようになりました。
![<span class="fontBold">梅原勝彦[うめはら・かつひこ]<br>エーワン精密 相談役</span><br>1939年東京生まれ。父が事業に失敗したことなどから小学校卒業後、12歳で働き始める。職人として腕を高めながら独立。70年にエーワン精密を設立し、消耗工具を主力とする金属加工業を営む。利益にこだわった町工場として知られ、2004年にジャスダック(現・東証ジャスダック)に上場。20年に設立50周年を迎えた。(写真=栗原 克己)](https://cdn-business.nikkei.com/atcl/NBD/19/00137/051700004/p1.jpg?__scale=w:500,h:428&_sh=0970160230)
エーワン精密 相談役
1939年東京生まれ。父が事業に失敗したことなどから小学校卒業後、12歳で働き始める。職人として腕を高めながら独立。70年にエーワン精密を設立し、消耗工具を主力とする金属加工業を営む。利益にこだわった町工場として知られ、2004年にジャスダック(現・東証ジャスダック)に上場。20年に設立50周年を迎えた。(写真=栗原 克己)
何しろ12歳から働いてきましたから、大学を卒業した人に比べて10年も早く世の中に出ているわけです。「そのぶん早く仕事から解放されなければ自分がかわいそうだ」と思い、60歳になったら事業から身を引こうと決めたのです。
事業を同族ではない人に引き継ぐ気持ちは、エーワン精密が成長してもずっと変わりませんでした。同族経営だと、後継者の選択肢が親族に限られてしまう。非同族にして選択肢が大きく広がる方がよっぽどいいと。
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