金属加工の職人として腕を磨き、大卒の社員よりも多い給料をもらえるようになった。それでも「社長になる」という意志は揺るがなかった。新しい事業のタネも見つけた。資金不足で踏み出せない中、結婚式に招いた義母が背中を押してくれた。

<span class="fontBold">梅原勝彦 [うめはら・かつひこ]<br />エーワン精密 相談役</span><br />1939年東京生まれ。父が事業に失敗したことなどから小学校卒業後、12歳で働き始める。職人として腕を高めながら独立。70年にエーワン精密を設立し、消耗工具を主力とする金属加工業を営む。利益にこだわった町工場として知られ、2004年にジャスダック(現・東証ジャスダック)に上場。20年に設立50周年を迎えた。(写真=栗原 克己)
梅原勝彦 [うめはら・かつひこ]
エーワン精密 相談役

1939年東京生まれ。父が事業に失敗したことなどから小学校卒業後、12歳で働き始める。職人として腕を高めながら独立。70年にエーワン精密を設立し、消耗工具を主力とする金属加工業を営む。利益にこだわった町工場として知られ、2004年にジャスダック(現・東証ジャスダック)に上場。20年に設立50周年を迎えた。(写真=栗原 克己)

 職人としての腕は良かった方だと思います。子供のころから父の町工場の機械の音を聞いて育ってきたし、他の人より早く働き始めたからね。金属加工の町工場を10社ほど渡り歩き、そのたびに技術を身に付け、給料が上がっていきました。

 22歳の時に腕を見込まれて入ったのは、社員200人ほどの大森電機工業。当時は大卒の社員の月給が1万2000円ほどでしたが、私は2万5000円ほどもらっていました。腕がそれだけ通用する時代だったのです。

 それまで私が働いてきたのは小さな町工場ばかり。周囲は年上が大半でした。この会社には中学校や高校を卒業したての社員も多数いて、私は管理職として指導する立場になりました。新しい経験でしたが、それでも「独立して社長を目指す」という気持ちは揺るぎませんでした。

 ここでの2つの出会いが私にとっての転機になりました。一つは、独立のきっかけとなる製品との出合いです。

 私が職人として手掛けてきた「ろくろ」による加工は、手に工具を持って金属を削るため、機械1台に職人が1人ずつ必要でした。そこに登場したのが自動旋盤です。手作業よりもずっと精度が高く、5~6台の機械を1人が並行して扱えるので生産性も高い。自分が培ってきた職人技は不要になると危機感を覚えました。「もう、ろくろをやっている場合ではない。自分が自動旋盤を扱えるようになろう」。こう決意しました。

この記事は会員登録で続きをご覧いただけます

残り1787文字 / 全文2493文字

日経ビジネス電子版有料会員なら

人気コラム、特集…すべての記事が読み放題

ウェビナー日経ビジネスLIVEにも参加し放題

バックナンバー11年分が読み放題

この記事はシリーズ「エーワン精密・梅原相談役の「不屈の路程」」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。