社員による酒造りという挑戦は、徹底した数値による管理で軌道に乗った。全国でも珍しい四季醸造に移行して生産量を増やし、海外販売の拡大と相まって急成長した。ところが、事業の拡大のペースに組織としての成長が追い付かなかった。

<span class="fontBold">桜井博志 [さくらい・ひろし]</span><br> 1950年山口県周東町(現・岩国市)生まれ。73年に松山商科大学(現・松山大学)卒業後、西宮酒造(現・日本盛)に入社。76年に父が社長を務める旭酒造に入社したが、父と対立して退社。父が亡くなった84年に復帰して社長に就任。純米大吟醸酒の分野で日本一の酒蔵に育て上げた。2016年に社長を息子に譲り会長に就任。(写真=森本 勝義)
桜井博志 [さくらい・ひろし]
1950年山口県周東町(現・岩国市)生まれ。73年に松山商科大学(現・松山大学)卒業後、西宮酒造(現・日本盛)に入社。76年に父が社長を務める旭酒造に入社したが、父と対立して退社。父が亡くなった84年に復帰して社長に就任。純米大吟醸酒の分野で日本一の酒蔵に育て上げた。2016年に社長を息子に譲り会長に就任。(写真=森本 勝義)

 杜氏(とうじ)が去ったことがきっかけとなって1999年に始めた、社員による酒造り。専門家ではない我々は、どこかに自分たちのよりどころをつくらなければなりませんでした。

 そのために徹底したのが、酒造りを数値で管理することです。醸造中のアルコール度数や酵素の割合などを毎日測定し、それを基に、どんな条件にすればいいのかの製造マニュアルを整備していきました。目指したのは、決まった仕事を淡々とこなすことで最高の品質を実現する酒造りでした。

 そのおかげで、2007年には全国でも珍しい四季醸造に移行できました。冬場だけでなく、通年で酒造りをするのです。蔵の内部の気温は年間を通じて一定に保ち、仕上がりが目標数値に到達するように制御することで安定した品質を実現しました。

 生産量が拡大し、海外展開が軌道に乗ったこともあり、売上高は2桁成長が続きました。16年9月期には売上高が100億円を超えるまでになりましたが、そのころから旭酒造では課題が幾つも浮き彫りになってきました。事業の拡大に、組織としての成長が追い付いていなかったのです。

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この記事はシリーズ「旭酒造・桜井会長の「不屈の路程」」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。