新日本製鉄と住友金属工業が合併し、2012年に新日鉄住金(現日本製鉄)が誕生した。新興国の台頭や円高などの6重苦で窮地に陥っていた日本の産業に風穴を開ける大型合併。東日本大震災を挟んだ国難のさなか、戦後の日本経済を引っ張った基幹産業がその姿を大きく変えた。
「10年前からお互いに暗黙の理解があったんです」。新日鉄と住金が合併方針を発表した6日後の2011年2月9日。住金会長の下妻博は京都市で開いた関西財界のセミナーでこう語った。
その言葉通り、10年前の01年。下妻は崖っぷちに立たされていた。前年に住金社長に就任したが、業績が急速に悪化。01年11月には株価が50円を割り込み、倒産さえあり得るとの見方が広がった。
救ったのが新日鉄社長の千速晃。再建の後ろ盾となる包括提携の交渉を進めた。住金の株価がさらに下がった12月10日には、下妻がパリに出張中の千速に電話を入れている。「予定を前倒しにして私だけで会見させてもらえないでしょうか」。信用不安を払拭したい下妻は翌日、1人で2社提携を発表する異例の会見を開いた。下妻は15年に亡くなるまで、千速への感謝の念を忘れなかった。
新日鉄と住金の間にある、こんなウエットな関係が両社を合併へと導いた。02年に神戸製鋼所を含めた3社で株式を持ち合うと決め、新日鉄と住金は03年にステンレス事業を統合した。千速の後に社長を務めた三村明夫も住金と信頼関係を築くことに心を砕き、年を追うごとに両社の関係は深まっていった。
06年には外圧がさらに両社の距離を縮めている。欧州でミタル・スチールがアルセロールを敵対的買収の末に傘下に収め、圧倒的な規模で他社を引き離した。技術力に優れる新日鉄もアルセロール・ミタルによる敵対的買収の脅威にさらされ、さらに規模を大きく、企業価値を高くという願いが強まった。このころから「次は住金との合併だ。機が熟すのを待つ」という声が新日鉄幹部から聞かれるようになる。
そして10年、合併への引き金となる事態が一斉に新日鉄と住金を襲う。一つは川上の寡占化による鉄鉱石と原料炭という原材料の値上げだ。
合併計画が発表される1年前、鉄鋼大手はBHPビリトンやリオ・ティントといった巨大化する資源メジャーの圧力に屈し、年1回だった値決め交渉を四半期ごとに行う変更をのまされた。しかも交渉とは名ばかり。それまでは複数回の話し合いで決めていたが、「電子メール一本で価格を通知され、反論の余地もないこともある」(鉄鋼大手の原料担当者)というありさまだった。
11年3月期の日本の鉄鋼メーカーの原料コストは前年よりも1兆円以上増えていた。国内の需要は好調と言えず、原料価格の上昇分を鋼材価格に転嫁することもできない。新日鉄で財務を担当していた副社長の谷口進一は「日本にいると原料はインフレ、出口はデフレ。こんなのは初体験だ」と嘆いていた。
ミタルの動きに神経をとがらせている間に中国勢も台頭していた。鉄鋼メーカーの合従連衡を国策で進め、10年11月には中国最大手の河北鋼鉄集団が河北省の民営鉄鋼会社5社を吸収合併すると発表した。11年の粗鋼生産量は河北鋼鉄と宝鋼集団が世界2位と3位。かつて世界首位の座に君臨した新日鉄は、中国の武漢鋼鉄にも抜かれ、6位に転落していた。
国内の事業環境もずたずたになっていた。円高、高い法人税、厳しい温暖化ガス削減目標、労働コストの高さ、自由貿易協定(FTA)交渉の遅れという構造問題に加え、11年には東日本大震災を受けた電力問題が発生。日本の製造業を苦しめる「6重苦」といわれた。鉄鋼業界も例外でなく、競争力を取り戻すため再編への機運は高まった。
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