前回はイノベーションの歴史とその本質について語った。第3回では、イノベーションに必須な意思決定力の課題とその鍛え方を、内外の様々な事例も含めて、三谷宏治氏と守屋淳氏が掘り下げていく。
ORIENT(オリエント)
原義は「ローマから東の方向」。時代によりそれはメソポタミアやエジプト、トルコなど近東、東欧、東南アジアのことをさした。転じて「方向付ける」「重視する」「新しい状況に合わせる」の意味に


なぜ薩長だったのか
三谷(以下、三):前回「イノベーションは辺境で起こる」の例で明治維新における薩摩・長州を挙げました。薩摩は琉球を通じた中国との貿易において、幕府に秘密で抜け荷(密貿易)までやっています。江戸から近くであればすぐばれてしまうでしょうが、これが国力の向上に寄与しました。型破りなことやルール破りなことは、中央から遠いからこそ可能なのです。
守屋(以下、守):薩摩は人材教育も独特でした。薩摩には郷中(ごじゅう)教育という有名な教育法があります。6歳から25歳までの武士の子息たちが異年齢混合の縦割りグループ(郷中)をつくり、互いに教育し合う*1のです。そこで重視されたのが「詮議(せんぎ)」という手法で、「起こり得るが答えのないような問い」を出し、答えを皆で議論し合います。「君主の敵、親の仇、両方持っている場合にどちらから打つべきか」「義とは、どのようなことか」なんてやつです。問われれば必ず答えなくてはなりません。普段からものごとを深く考えていることが求められます。
なぜそのような教育をしていたのでしょう。島津家33代目の方によれば「薩摩はとにかく辺境」「だから江戸や長崎、琉球に人を派遣しても、いちいち本国からの指示を待っていたら仕事が全く進まない」と。現場でパッと判断ができる人を育てるためにそういう教育をしていたのだそうです。それが明治維新で見事に花開いたのでしょう。革命期には、「集団指導で上意下達(じょういかたつ)、上の言うことを聞け」などとやっていたらダメなのです。西郷隆盛と大久保利通も同じ郷中の先輩後輩です。2人とも下級武士の子でしたが、ここで頭角を現し登用されました。
三:教えるのが先輩たちだから共通のテキスト(教科書)があるわけでなく、バラバラなのもいいですね。鍛えるべきは意思決定の力。そのために知識の標準化は要らない。同様の例が村田製作所かもしれません。
森有礼、パリで伊藤博文に教育を語る

薩摩藩士の末子・五男として生まれた森有礼(ありのり)は、近所の先輩たちにしごかれながら育った(郷中教育:本文参照)。子どもたちがともに教え合う毎日の鍛錬で身につけたのは「自ら考える力」だった。8歳先輩の五代友厚*2が藩に提案した英国留学生に選ばれ、3年かけて英露米を巡った。そこで見た米英の繁栄に圧倒され思った。「教育こそが日本が生き残るカギだ」と。
政府の要職に就いた有礼は、駐英公使となり渡欧中の伊藤博文とパリで会談する機会を得た*3。総理大臣ともなるだろう彼に、何を訴えよう。まずは「国民教育の目的は、国家の独立。富国強兵を支える知力や道徳、体力の養成だ」「そのための義務教育の導入と教員養成学校の強化*4が必須だ!」と、ここまではいい。問題はどうしたら、日本人一人ひとりが自立した国民になれるかだ。旧薩摩藩のような郷中教育か、それとも欧米で見たような教科書を使った標準化か。考えた末、彼は心を決めた。
*2=のちに鉱山王、大阪商法会議所の初代会頭となる。1885年に49歳で早世。朝ドラ『あさが来た』ではディーン・フジオカが演じ「五代ロス」という言葉も生まれた
*3=この3年後、第1次伊藤内閣の誕生とともに有礼は39歳で初代文部大臣に就任する。しかし4年後にデマを信じた暴漢の凶刃に倒れた
*4=これに先立って森有礼は商人の国際化を目的に商法講習所(のちの一橋大学)を開いた
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