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「気ぃつけや」と予言されていた36歳を迎えたころ、オイルショックの影響が直撃する。創業時からの同志は自ら死を選び、経営に不安を感じた債権者たちが詰め寄ってくる。そんな危機に下したのは、あくまでも新しいものを生み出すという発明家ならではの決断だった。

 死ぬことも覚悟しながら全自動手袋編み機の開発に成功してから10年がたった1974年、私はまたもや絶体絶命の事態に追い込まれていました。前年に起きたオイルショックに端を発した不況の波が、遅まきながら繊維業界にも押し寄せてきたのです。年明け早々から、編み機の注文キャンセルの嵐です。納品済みだった機械が次々と工場に戻ってきました。

 編み機を開発してからの島精機製作所は順調でした。売り上げは前年度比1.5倍ぐらいのペースで伸び、足元では年商36億円にまで達していました。それが一気に暗転したのです。

 新たな発注はまったくと言っていいほどありません。機械整備や掃除ぐらいしか仕事がなくなり、夏ごろには運転資金にも窮するようになります。当時、私は36歳。「36歳で死ぬ可能性があるから気ぃつけや」。高校生のころに新聞の販売拡張員から告げられた予言めいた言葉が嫌でもよみがえります(第2回「9歳の夜にクモの巣がくれたヒント」)。

1974年の入社式。新入社員42人を迎えたが仕事は少なかった

 そんな中で9月、創業からの付き合いだった後藤武治専務が、社内で自ら命を絶ちました。

 後藤専務は10年前、背水の陣で全自動手袋編み機の開発に臨んだときに「失敗したら2人で列車に飛び込もう」と一緒に生命保険にまで入った、かけがえのない同志です(第1回「生死をかけた2分15秒の永遠」)。わずか2時間前には食事を共にしていたのに……。あまりのことに声を失いました。

 「構造不況業種の繊維業界でついに犠牲者」──。国内営業や資金調達といった対外業務を取り仕切っていた後藤専務の訃報を、NHKは夕方から夜にかけての全国ニュースでセンセーショナルに報じました。