和歌山の市街地の半分が焦土と化した空襲で家を失い、生活をゼロから立て直すことになる。当時8歳だった少年は畑を耕し、鳥を撃ち、魚を捕り、商売をしながら家族と必死に生き抜いた。創意工夫を繰り返し、周囲をよく観察する姿勢が、その後の発明家人生の礎となった。

島 正博 [しま・まさひろ]氏
1937年和歌山市生まれ。県立和歌山工業高校卒業。18歳でゴム入り安全手袋を開発するなど若いころから発明の才能を発揮する。61年に島精機製作所の前身を創業。全自動手袋編み機、全自動襟編み機、ホールガーメント横編み機などを世に送り出し、アパレル業界に変革をもたらす。2017年6月に会長就任。旭日中綬章を受章。(写真=菅野 勝男)

 終戦から遡ること1カ月余り。1945年7月9日、和歌山は大規模な空襲に見舞われました。8歳だった私は家族と一緒に、自宅の裏山にあったお寺の墓地に避難しました。何とか逃げ切って自宅の方を振り返ると、焼夷(しょうい)弾が家に直撃して火の手が上がるのが見えました。墓地から見えた、和歌山城の天守閣が炎上して夜空を赤々と染めている光景を忘れることはないでしょう。

 多くの死傷者を出したこの空襲で和歌山は市街地の43%が焦土と化しました。朝を迎えると、辺り一面は焼け野原です。父は南方に出征したまま音沙汰なしで、安否も分かりません。後に終戦から3年がたってようやく戦死通知が届いたのですが、一緒に届いた白木の箱に入っていたのは「島武夫」と書かれた木片だけでした。

 「自分が大黒柱として家族を支えないといけない」。まだ幼い少年でしたが、焦土を前にしてこう強く思いました。

 まずは住むところをどうにかしなければなりません。ところが、バラックを建てようにも資材なんてどこにもない。焼けたトタンを拾ってきて屋根をふき、墓地にある角形の立派な卒塔婆を引き抜いて柱にしました。「すんません。こんな時なので堪忍してください」。手を合わせて12本ほど拝借しました。

とにかく腹ぺこだった

 住むところが確保できたら、次は食べ物です。とにかくおなかがすいて、毎日ふらふら。お金がないので、自分でつくるしかありませんでした。がれきを取り除きながら耕して、1年をかけて家の周りの100坪ほどを畑にしました。カボチャ、サツマイモ、ナス、キュウリ、トマト……。家族ではとても食べきれないぐらい。近所にお裾分けをしたり、物々交換をしたりしていましたが、そのうち天ぷらにして売ることを思いつきました。

 ただ、物資不足で油が手に入りません。闇市に出かけて天ぷら屋台のおじさんに分けてもらえないかと頼んでみました。「商売敵を増やすようなことできるか」と、最初はにべもありませんでしたが、父が帰らないことを打ち明けると、気前よく一升瓶を持たせてくれました。油は一級品で、海でとってきたキスやエビ、畑でとれた野菜でつくった天ぷらは飛ぶように売れました。

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