すし事業の失敗から再起を懸けたパソコン代理店事業で、ゲームの世界にビジネスの鉱脈を見いだす。コンピューターゲームの企画販売会社「エニックス」を設立して、若いクリエーターをコンテストで発掘。「ファミコン」の登場で沸騰し始めたゲーム市場に、“国民的ゲーム”となる「ドラゴンクエスト」を投入した。

持ち帰りすし事業はオープンから3カ月で撤退。年間約3億円を売り上げていた不動産情報誌も将来性に乏しい……。「日本一」を目指す私は、めげずに成長の機会を探っていました。そして、新たな鉱脈をゲーム産業に見いだします。今回はすし事業の敗退から「ドラゴンクエスト」が生まれるまでの経緯を紹介しましょう。
すしの失敗から再起を図るべく、米国で急速に普及が進んでいたコンピューターに社運を懸けました。東芝の「BP100」というオフィスコンピューターが売れていると耳にした私は、手始めにこの機器の代理店事業を始めました。高額商品のため、営業を始めた当初はほとんど契約が取れずに悩みました。
新聞広告を打ったり、利用者の困りごとに焦点を当てた営業をしたりと工夫を重ね、着実に業績を伸ばしました。売り上げが代理店のトップになったこともあるんですよ。ただ、BP100の販売を通じて「ビジネス用の伸びしろは大きいが、今は時期尚早だ」と感じました。当時のパソコンはまだゲーム用途が主流だったのです。そこで、コンピューターゲームの企画販売を手掛ける「エニックス」を設立します。1982年のことでした。
野に潜む才能を発見せよ
ゲームの黎明(れいめい)期は、クリエーターが個人的に開発したソフトを、企業が買い取って販売するのが一般的。私は「野に潜む才能を発見し、一堂に集められないものか」と考えました。そこで、ゲームソフトのコンテストを思いつきます。パソコンショップなどにポスターを貼って作品を募りました。コンテストを開催する会社は他にもありましたが、私は勝負に出ます。30万円が一般的だった最高賞金を、「最優秀賞は100万円」とぶち上げたのです。
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