「中野ブロードウェイでの大失敗」から一念発起、「日本一」を目指す青年は世界放浪に旅立つ。1970年代の米国に滞在して“日本の未来”を見た経験から「タイムマシン経営」の基礎を体得する。住宅情報誌の成功、すし事業の失敗を経て、「ドラクエ」誕生に向けた歯車がぎしりと動き始めた。
![福嶋康博 [ふくしま・やすひろ]](https://cdn-business.nikkei.com/atcl/NBD/19/00129/080800071/p1.jpg?__scale=w:450,h:482&_sh=0a901c0110)
若気の至りとはいえ、思い返せばいまだ赤面するような大失敗を前回はお話ししました。中野ブロードウェイの案内図や店舗情報を載せた月刊情報誌を発行する構想は、会社設立の登記をせずに事業を始めようとした私の無知のため頓挫しました。失敗に打ちひしがれましたが、「起業して日本一になる」という夢は心の片隅でくすぶり続けていました。
自分の未熟さを知った私は、「起業して成功するにはどうすればいいか」を改めて考え直しました。思いついたのは、世界経済の最先端を走る米国を見聞すること。「そこに日本一になるためのヒントがあるのではないか」と考えたのです。
1972年のことです。私は日本を離れました。米国には3カ月以上滞在しました。サラリーマン家庭に住み込んでハウスキーパーをするなどして、現地の「今」を体感したのです。さらに見識を深めるため、インド、タイ、マレーシア、香港などアジア各地も放浪しました。
放浪で知った日本の「未来」
この経験を通じてビジネスの“時間軸”に気づきます。「米国は日本の未来であり、アジアは日本の過去である」という概念です。米国での流行は日本に波及し、その潮流はアジアにも伝わる。いわば「タイムマシン経営」の基礎なのですが、この認識はその後に立ち上げた事業のビジョンを得る場面で大いに役立ちました。
帰国後、新事業の立ち上げを決意します。このときも日常生活で感じた不便さの解消がビジネスの種となりました。それが「住宅探し」です。
74年に結婚した私は新居を探していました。そこで家賃の安い公団(日本住宅公団、現在の都市再生機構)住宅を知ります。ただ、競争率が高く入居が難しかった。入居者の募集はいつ、どこで始まるかよく分からない。「入居したいがどうすればいい?」と公団に問い合わせると、「募集は新聞で告知しているので毎日チェックしてもらうしかない」との返事。何て不便なんだと感じました。
公団住宅では暮らせなかったのですが、「この情報をビジネスにしよう」と照準を合わせました。入居者を募る物件を公団などに教えてもらい、月刊情報誌に掲載する。今でいう不動産情報誌ですが、70年代半ばはこの手の雑誌をほとんど見かけませんでした。
情報誌は成功しました。公団などの協力を得て74年に事業を開始すると、応募や問い合わせが殺到しました。わずか3~4カ月で採算が取れたため、75年に初の会社組織「営団社募集サービスセンター」を設立しました。もちろん、中野ブロードウェイの失敗から学んでいるので、今度はちゃんと登記しましたよ(笑)。
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