“国民的ゲームソフト”「ドラゴンクエスト」シリーズを世に送り出した旧エニックスを長年率いてきた。「いつか日本一になる」ことを目指し、数々の起業を経験してたどり着いた先がテレビゲームだった。経営者としては苦悩し続け、「成功の先に潜む成長の限界に、常におびえていた」と足跡を振り返る。

福嶋康博(ふくしま・やすひろ)氏
福嶋康博(ふくしま・やすひろ)氏
1947年北海道生まれ。75年に公団住宅の募集情報を発信する「営団社募集サービスセンター」を設立。82年にエニックスを立ち上げ、ゲーム「ドラゴンクエスト」シリーズなどを世に送り出す。2003年には合併で誕生したスクウェア・エニックス会長に就任。経営を離れてからはアジアでのボランティアなどに取り組む(写真=竹井 俊晴)

 振り返ると、手を替え品を替え挑戦し続けた経営者人生でした。北海道から進学で上京して、情報誌を発行したり、持ち帰りすし事業に参入したり、オフィスコンピューターの販売会社を立ち上げたり……。

 私はどんな分野でもいいから「日本一」になりたかった。後にコンピューターゲームの企画・販売を手掛けるエニックスを立ち上げ、ファミコン用ソフトの「ドラゴンクエスト」を発売して大ヒットしました。ドラクエをはじめ成功を収められたのは、常に不安を感じて動き続けてきたからかもしれません。

 私は既に経営の第一線から退いています。ロールプレイングゲーム「ファイナルファンタジー」シリーズを手掛けるスクウェアと合併してスクウェア・エニックスが誕生したのが2003年。翌04年に代表取締役会長から相談役名誉会長となりました。05年には名誉会長に就任して、50代半ばで経営からは距離を置いたのです。

福嶋氏が経営を離れても成長は続く
福嶋氏が経営を離れても成長は続く
●スクウェア・エニックスHDの売上高の推移
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 引退が早いと思われるかもしれませんが、私は経営者としてのゴールを50歳と考えていました。社長はしんどい役職ですよ。1975年に公団住宅の情報誌を発行する「営団社募集サービスセンター」を立ち上げてから、経営者として会社の将来にずっとやきもきしてきました。3年後、5年後にこの事業は存在しているのかと常に不安と隣り合わせ。その思いは、ドラクエが売れて事業が好調だった時期も変わりませんでした。

 売り上げが低迷して、倒産したらどうしようと恐れていたのではありません。成長が止まるのが怖かった。「企業は常に成長しなければならない」という思いに取りつかれていたんでしょうね。次はどんな手を打とうとか、次はどんな事業を立ち上げようとか考え続けてきました。曲折をたどった経営者ですが、まずは事業を起こそうと第一歩を踏み出すまでの話をしたいと思います。

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