ダイエーを経て北関東を地盤とする食品スーパー、カスミ社長に転身した小濵裕正氏。「スーパーは地域密着でなければ勝てない」という信念は、ダイエーでの勤務で培われた。企業には時代に合わせて自己変革をしていく「蛻変(ぜいへん)」が必要と説く。

<span class="fontBold">小濵 裕正 [こはま・ひろまさ]<br>1941年、大阪府生まれ。65年神戸商科大学(現兵庫県立大学)卒、主婦の店ダイエー入社。83年北海道ダイエー専務。87年マルエツ副社長。97年ダイエー専務。2000年ダイエー退社、カスミ顧問。02年カスミ社長、10年会長。15年ユナイテッド・スーパーマーケット・ホールディングス会長。18年日本チェーンストア協会会長。</span>(写真=的野 弘路)
小濵 裕正 [こはま・ひろまさ]
1941年、大阪府生まれ。65年神戸商科大学(現兵庫県立大学)卒、主婦の店ダイエー入社。83年北海道ダイエー専務。87年マルエツ副社長。97年ダイエー専務。2000年ダイエー退社、カスミ顧問。02年カスミ社長、10年会長。15年ユナイテッド・スーパーマーケット・ホールディングス会長。18年日本チェーンストア協会会長。
(写真=的野 弘路)

 生まれは太平洋戦争が始まった1941年。戦争の記憶はあまりないのですが、軍需工場がある大阪の港の近くに住んでいたので、焼夷(しょうい)弾が飛行機からばらまかれて、バーっと打ち上げ花火みたいできれいだと感じたことは覚えています。母親に手を引っ張られて防空壕(ごう)に入ってね。

 奈良に疎開して、終戦後に大阪に戻りました。占領軍の巡回みたいな行進があるんですね。米兵にチューインガムをくれとか、チョコレートをくれとか寄っていって、自然と顔なじみになって、甘いものは全部そこから調達していました。人懐こいのかは知らんけど、どさくさにまぎれて甘い汁を吸うのはうまかったかもしれないですね。

 父は造船技師で、3人兄弟の末っ子です。工務店を経営していましたが、裕福ではなく、5つ上の長男と2つ上の次男は大学に行かせてもらえなかった。朝鮮動乱で日本の景気がよくなって、「おまえは大学くらい行っておけ」と父が言ってくれて、神戸商科大学に進みました。第1回でも触れた通り、大学で出会った石原武政君に影響されて、65年に主婦の店ダイエーに入りました。

ダイエーで中内さんの部下に

 入社して最初に配属されたのは、創業者である中内㓛さんが社長と兼任して本部長を務めていた営業本部。僕はそのスタッフ部門に配属されました。ちょうど中内さんが半年ほど米国のチェーンストアを勉強して帰ってきたところで、いきなり分厚い冊子を渡されました。「これ何ですねん」と聞いたら、「手引書や。チェーンストアをやろうと思ったら、こういうことがないとできないんや」と。辞書を一生懸命引いて、英語のマニュアルを日本語に訳すことが、最初の仕事になりました。

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