使用済みペットボトルを高品質の樹脂に再生する“都市油田”の開拓に突き進んできた。徒手空拳で挑み、ペットボトルリサイクルの最大手にまで成長。大手メーカーに次々食い込んだ。官公庁に殴り込みをかけ、顧客と真正面から向き合い続けたドン・キホーテは、初志を貫徹した。

古澤栄一(ふるさわ・えいいち)氏
古澤栄一(ふるさわ・えいいち)氏
1956年栃木県生まれ。81年、廃プラスチックの油化事業を手掛ける会社を知人と立ち上げる。後に独立し、夫人と85年に協栄産業を設立。廃ペットボトルをペットボトル用樹脂原料に再生する日本初の技術を2006年に開発。ペットボトルリサイクルの日本最大手になる。「廃PETボトル再商品化協議会」の会長も務めた。(写真=北山 宏一)

 皆さんが普段飲んでいるペットボトル飲料。日本のペットボトルのリサイクル率をご存じでしょうか? 9割強にも達し世界でもダントツの高さです。私は使用済みペットボトルを洗浄して樹脂に再生する事業を手掛けています。

 徒手空拳の創業でしたが、日本初の技術が花開き年商200億円の会社に成長しました。しかし、“都市油田”の開拓はいばらの道。前例主義の官公庁との暗闘、顧客が向ける不信の目……。幾多の受難はあれど、初心だけは決して忘れませんでした。

 私は1956年、栃木県茂木町で4姉弟の長男として生まれました。太平洋戦争を生き延びた父の口癖は「生きることは食べること、食べることは生きること」。父は耕運機を使って自宅近隣から県外まで田畑を耕すことを生業(なりわい)とし、私も3歳の頃から耕運機に乗せられて耕作の季節に各地を転々とする日々を過ごしました。

 家屋に布団を敷いて泊まらせてくれる農家もあれば、「納屋か馬小屋で雑魚寝してくれ」とそっけない応対の人もいた。幼心に大人の世界を垣間見た気がしました。おべんちゃらを使えば気に入られることも分かってきた。弁が立つのは、この少年時代に培われたのかもしれませんね。

 10代は破天荒でした。学校はそこそこに茨城県まで砂利を運ぶダンプカーに乗せてもらったり、新聞配達をして購読勧誘を次々成功させたり。どの道に進むべきか迷っていたので何でもやりましたね。

 父親からは「農業を継いでほしい」と諭されましたが、反発。19歳の時、高校時代に同級生だった妻と駆け落ち。妻の親からは「あんな不良と付き合うなんて」と交際自体、猛反対された揚げ句選んだ道でした。2人で生きていくために借金をして小型トラックを買い、運送業を始めました。

 その6年後の81年、ある運送仲間から声を掛けられます。「廃プラスチックを油に戻す『油化』の会社を一緒に創業しないか。古澤君は何よりバイタリティーがあるし弁も立つ」。当時日本は79年に始まった第2次オイルショックのただ中。石油価格が高騰し省エネが騒がれていた時代でした。

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