2015年、夢に描いた米国進出を果たしたものの、消費者のニーズを捉えきれず大苦戦に陥った。競合企業の台頭などを受けて国内でも売り上げがダウンする中、米国事業の大幅縮小を決断する。海外で経験した失敗。だが、このときの試行錯誤が、窮地に陥った会社を再起する突破口となった。

高岡本州 [たかおか・もとくに]
高岡本州 [たかおか・もとくに]
1960年名古屋市生まれ。名古屋大学工学部応用物理学科卒、慶応義塾大学大学院経営管理研究科修士課程(MBA)修了後、父が経営する日本高圧電気に入社。87年米スタンフォード大学大学院修士課程修了。98年日本高圧電気社長(現在は取締役)に就任。2004年に伯父から中部化学機械製作所(現エアウィーヴ)の経営を引き継ぐ。(写真=栗原 克己)

 大型投資を敢行した2015年、エアウィーヴは米ニューヨークのソーホー地区で路面店を出店、米国進出の夢を実現しました。私は国内での勢いに乗じて米国で第二創業する気概で臨みました。ためてきた利益は米国進出にほぼ注ぎ込みました。しかし、この挑戦で手痛い失敗を経験することになります。

 当時、エアウィーヴは14年から17年まで米五輪代表のスポンサーが決まっていました。米国にブランドを広める絶好の機会と考えた私は、16年に開催を控えていたリオデジャネイロ五輪で最大の力を発揮するため、このタイミングでの投資を決断。「海外企業から攻められる前にこちらから海外を攻めよう」という考えもありました。私は高付加価値の寝具が近い将来にグローバル競争となる可能性を警戒していたのです。

 しかし、米国では苦戦しました。誤算だったのは、投入したパッドが米消費者の感覚とずれていたことです。パッドは日本では寝具として販売しましたが、米国ではカバーと見なされた。この認識を覆せなかったのです。寝具店に営業に回っても「パッドにこの価格はあり得ない」と断られてばかり。自社店舗ではそれなりに売れたのですが、米国事業を支えるには遠く及びませんでした。

 「日本で売れているのだから海外でも売れるはず」と錯覚したのが経営判断の誤りでした。1年半ほどはパッドで何とか売り上げを立てようと努力したのですが、状況は変わりません。そこで製品の戦略を見直し、急いで米国向けの分厚いマットレスを開発して投入しました。しかし、新たな課題が浮上します。ネックは物流品質の低さでした。大型のマットレスは輸送の過程で半数以上が破損したのです。顧客からクレームが相次ぎ、返品が重なる状況でした。

 そんなときに日本でも課題が噴出します。既存メーカーが競合製品を販売したことで、少しずつパッドの売り上げがダウンし始めました。私は海外事業に軸足を置くため14年に社長職を後任に託し、会長に就任していました。人事は任せきりとなり、店舗も工場も回っていませんでした。やはりトップが不在では人心は乱れます。社員にも「海外でお金ばかり使う」と不満もあったでしょう。

 それでも米国事業を何とかしようと、16年のリオ五輪に向けて最大限のPR体制を組みました。結果は惨敗です。米国は結局、年20億円の赤字に。リオ五輪後はメディアで取り上げられる機会も減り、事業環境はますます難しくなりました。このままでは会社が持たなくなる。私は17年にニューヨークの店を閉め、米国事業を大幅に縮小しました。

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