26歳で会社を創業して半世紀。一代で「ミキハウス」を世界的な子供服ブランドに育て上げた。経営者だった父の「薄利多売」主義に反発し、長男でありながら家業の婦人服メーカーを継がず起業。行商先で門前払いを食らいながら勝ち筋を見いだして「高くても売れる」ものづくりで販路を開拓した。

木村皓一(きむら・こういち)氏
木村皓一(きむら・こういち)氏
1945年滋賀県彦根市生まれ。関西大学経済学部を中退し、野村証券入社。父が経営する婦人服メーカーを経て71年、三起産業を創業。78年三起商行を設立し、「ミキハウス」を世界的な子供服ブランドに育て上げた。スポーツ支援に尽力し、五輪では柔道3連覇の野村忠宏ら100人を超す代表選手を輩出。自身も今なお軟式野球を続ける。(写真=水野 浩志)

 おまえはもう来るな! 出入り禁止や──。婦人服メーカーを営んでいた父からある日、こう怒鳴られましてね。「家から出て行け」とは言われなかったけど、「会社にはもう来るな」と。せやけど、僕は正論を言っただけなんですよ。「もっと高い付加価値を付けて商品を売らなあかん」と。

 思えばこの父との対立こそが、僕が後に起業に踏み切り、子供服ブランド「ミキハウス」を立ち上げる原動力になったように思います。

 父は大阪で婦人服メーカーを営んでいました。商社を通じて、ブラウスを米国で販売していたんです。だけど、商品には付加価値がなかった。日本で素晴らしいものを作っていながら、1着1ドルで売っていた。いわゆる「ワンダラーブラウス」を何千万枚と作って輸出しとったんですよ。

 安く作れたのは、中卒の子らを雇って縫ってもらっていたからです。しかし、中学を出て縫製工場に就職する子なんて、だんだんおらんようになってくるでしょう。だから、僕は言ったんです。「これはおかしい」と。

 薄利多売だから、従業員の給料も上げられへん。当時は1960年代後半でしたが、先々に新興国が台頭してきたら、安さでの勝負は厳しさを増していく。そういう話を父にしたんです。そうしたら、「これだけの収益を上げている」と言うわけですよ。

 例えば、ブラウス1枚で3円の利益が出るとして2000万枚売ったら6000万円もうかる。高収益企業やと自信を持って説明した。「そんなん、今だけや……」。僕は歯がみしながら父の話を聞いていました。

 これからの時代、付加価値の高い商品を、ちゃんとした価格で売らなあかん。これは自分で証明するしかないなと思って71年、大阪府八尾市に三起産業(現・三起商行)を立ち上げた。26歳のときです。

 もちろん、実家からの支援は得られません。結婚もしていたし、稼がなあかんかった。(大阪市の)北浜にある証券会社でアルバイトしてお金を懸命にためた。資本が少なくてもできるビジネスを探してたどり着いたのが子供服でした。高付加価値ブランドを作って日本の高級ブティックに卸したいと思い、いろいろ調べたら、勝ち筋が読めてきたんです。