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 公定歩合が銀行の貸出金利の下げに連動することで、企業は融資を受けやすくなる。経営者は工場を建設し、新規事業向けの投資を増やす。増産された製品や新商品が企業に収益という形で返ってくれば、従業員の給与アップにも貢献し、個人消費も上向く。景気の好循環という形だ。

 さらに視線をグラフの右方向に移した。

 90年の6%から公定歩合は急激な右肩下がりのカーブを描いている。円高不況後の景気対策、低金利政策でバブル経済が発生し、89年に平均株価が4万円目前の史上最高値をつけたことを頂点に、日本は急な坂道を転げ落ちたと母校の教授が言った。

 グラフの右端に近づくにつれ、2%を下回り、〈リーマン・ショック〉〈欧州経済危機〉……池内が社会人となって以降のトピックのメモとともに、一段と0%に近づく。

 「2016年にはマイナス圏に沈んでいます」

 右端の一点を指し、池内は言った。金利が水面下に沈んだということは、銀行からカネを借りる際、頼むから使ってくれと上乗せ分をもらってもおかしくないということだ。

 新聞の見出しやテレビニュースで何度も耳にした事柄だが、今一つ関心がなかった。たしかに政策金利がマイナスになれば、一大事だ。しかし、池内の給与が半分になったわけではなく、怒った預金者が大規模なデモ行進するようなこともなかった。

 「長引く不況、デフレの常態化で日本人の経済観念が麻痺したのかもしれない」

 河田がぽつりと言った。グラフを一瞥すれば、日本が異様な状況にあることは理解できる。しかし、皮膚感覚として、大きな影響が出ている実感がないのだ。

 「それで、銀行の件です。濡れ手に粟と同期が言いましたけど、どういうことでしょうか?」

 「ちょっと待て。まずは日銀と政策金利の関係をもう少し説明する。そうでないと、先に進めない」

 大学のテキストで金融や財政の基礎的な知識を身につけたはずだが、多忙な営業マン生活で大半を失った。今は読者に情報を届ける立場にいる。取材の最前線にいるベテランの言葉を漏らさず残そうと、スマホの画面をメモアプリに切り替えた。

 「正確を期すと公定歩合という呼び名は2006年になくなった。金利自由化の措置を経て、市中銀行の預金や貸出金利が公定歩合に連動する仕組みが消えたからだ」

 河田の言葉を手早くメモアプリに落とし込む。

 「公定歩合の変更は経済記者にとって最大の関心事で、政治記者の解散報道と同等の価値があった。スクープを出せば社長賞がもらえた。一般には地味なニュースだが、川下への影響力がとんでもなくデカいからだ」

 「過去形ですね」