前回までのあらすじ

 仙台あけぼの銀行の千葉朱美の自殺について調べ始めた月刊誌記者の池内貴弘は、千葉が過剰なノルマを課されていた事実を知り、旧知の河田雄二に地銀の状況について教えを乞う。

 金融コンサルタントの古賀遼は、米国の金利の行方に懸念を抱く。磯田一郎・財務相に会い、懸念はさらに深まる。

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(9)

 「今どきの記者さんは、すぐにスマホで検索するんだろ?」

 河田が皮肉めいた調子で言った直後、池内はスマホを慌ててテーブル下に隠す。

 「別に怒ってないよ。日本、政策金利、推移で検索かけてみな」

 言われた通り、フリック入力でキーワードを入れる。

 「……こんなものが出てきました」

 証券会社が日銀の資料を基に作ったグラフがトップに表示された。

 折れ線グラフの横軸左端には1970年の文字が刻まれている。右側へ視線を動かすと80年代、90年代、2000年代、現在へと年が記されている。グラフの縦軸はマイナス2%の目盛りを一番下に、0%、2%から10%まで数字が上方向に伸びる。

 「昔は金利という概念があった。さっき言っただろ」

 河田が言った直後、池内はグラフを凝視した。左側にある1972年に〈第一次石油危機〉とメモが添えられ、公定歩合を示す線は4%の辺りにある。その後1974年にかけて〈列島改造ブーム〉のメモがあり、公定歩合は8%を超える水準まで急激な右肩上がりのカーブを描いている。

 視線を右側に動かす。80年代の頭に公定歩合は8%を超えたあと、86年の〈円高不況〉のメモの辺りで3%付近まで落ち込み、一旦底を打った。その後は90年代初頭にかけ6%近くまで上昇していた。池内がグラフの折れ線を指で辿っていると、河田が眉根を寄せた。

 「円高不況の後、政府と日銀は一体的に景気対策に邁進した。日銀は景気底割れを回避するため公定歩合を低位で安定させた。しかし、結果的にこれがバブル経済の病根になった」

 河田の言葉を頭の中で反芻した。

 金利が高ければ、世の中のカネは利率の高い金融商品に集まる。逆に、公定歩合が低ければ、民間銀行の預金金利も連動して下がるため、旨味が減る。多少リスクが高くても、より高いリターンの得られる株式などリスク性の金融商品にカネが向かう。大学の講義で習った円高不況の文字が、具体的に頭の中でつながっていく。