月刊誌記者の池内貴弘は、財政再建を求める日銀OBらの提言書を記事にしようとするが、社長から中止命令が下る。同僚の堀田は新型ウイルスに感染した疑いが強まるが、受け入れてくれる病院が見つからない。池内は、病院を紹介するというフィクサー、古賀遼の提案を呑んだ。
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「どうぞごゆっくり」
口元に透明なシールドを着けた店主が苦笑いした。
「お客様がなかなか戻りません。今晩は実質的に貸し切りです」
「すまないねえ、これから知り合い連れて来るから」
池内の対面に座る河田が嗄れた声で言った。
「今度第2波が来たら、もちません。その前になんどもご来店を」
店主は冗談とも本気ともつかないことを告げ、空いた突き出しの皿を下げ、小上がり席を後にした。暦は6月下旬となった。4月初旬に政府によって発出された緊急事態宣言が1カ月前に解除され、東京都独自の警戒情報も取り下げられた。
休業を余儀なくされた飲食店が恐る恐る営業を再開したが、客足が以前のように戻っている店は少ない。
「地元にこんな渋い店があるとは知りませんでした」
「チェーンの居酒屋や牛丼屋ばかりだろう? たまには地元で金を落とした方がいいぞ」
ベテランのフリー記者が手酌でレアな秋田産の純米吟醸を猪口に注いだ。肌にまとわりつくような小雨が降りしきる週末の夜、河田にうなぎとおでんが名物だという高田馬場の居酒屋に呼び出された。神田川沿いにある狭小戸建ての店舗だ。なんどか店の前を通ったことがあるが、河田のような酒好きがこぞって集まる名店だとは知らなかった。
「ここのおでん、出汁がうまいだろ?」
「ええ、いりこのお出汁は初めてです。透明できれいな色でした」
定番の大根、ちくわのほかに、池内は玉子を平らげ、取り皿の出汁も飲み干した。
「俺はあとで焼酎をこの出汁で割る。これがいくらでも飲める危険物だ」
関西風に焼き上げたうなぎの白焼きを口に入れ、河田が相好を崩した。
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