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 〔序〕

 〈信認は空気のような存在で平時は誰もその存在を疑いませんが、信認を守る努力を払わなければ、非連続的に変化し得るものです。そして、一旦、信認が崩れると、経済に与える影響は計り知れません。信認は非常に微妙な構築物です。

『中央銀行』白川方明著より〉

 〔プロローグ〕

 〈2014年10月30日〉

 新宿御苑脇の外苑西通り、大京町の信号近くで古賀遼(こが・りょう)はタクシーを降りた。スマホの地図アプリを頼りに、国立競技場方向に歩く。再度スマホに目をやると、外科病院を通り過ぎたところで左折せよと矢印が表示された。

 午後8時3分、外苑西通りから逸れた途端に車が減り、周囲を歩く人影もほとんどなくなった。閑静な住宅街には広大な敷地を持つ屋敷がいくつも連なる。

 古賀は歩みを速め、私大病院近くの低層マンションに向かう。間接照明がエントランスの石畳と植え込みを照らす。スマホの地図アプリを消し、時刻に目をやる。午後8時10分、そろそろ目的の人物が帰宅する。

 スマホを背広のポケットにしまったとき、外苑西通りの方向からエンジンの音が近づいてきた。街灯に照らされた黒い大型のセダンが現れ、ゆっくりとマンションに近づく。

 「ありがとうございます。明日もお願いします」

 自ら後部座席のドアを開けたショートカットの女が言い、扉を閉めた。大量の資料を詰め込んでいるのか、茶色のブリーフケースは歪(いびつ)に変形している。グレーのパンツスーツと大きな鞄は、一眼で仕事のできる女だとわかる。

 「明日は午前7時半に参ります」

 助手席の窓が開き、運転手が恐縮したように言った。

 「おやすみなさい」

 女が返すと、運転手はゆっくり車を走らせた。車を一瞥した女はパンプスの踵を鳴らした。手足が長く、背筋を伸ばした全身からは自信がみなぎっている。だが、自分はこの女のプライドをへし折るために派遣された。意を決し、古賀は女に歩み寄った。

 「こんばんは、青山先生」

 「どこの記者さんかしら? ブラックアウトのルールはご存知よね?」

 青山ゆかりが眉根を寄せ、わずかに体を逸らした。

 「記者ではありません。金融コンサルタントの古賀と申します」

 「金融のお仕事をなさっているなら、なおさらお話しすることはできません。私の任務をご存知ですよね」

 青山が顔をしかめた。

日経ビジネス2019年10月7日号 74~78ページより目次