前回までのあらすじ

 月刊誌記者の池内貴弘は、かつての女友達で地方銀行に勤めていた千葉朱美の自殺の背景を調べる。ベテランジャーナリストの河田雄二は池内に、金融緩和による低金利が地銀を追い込んでいる状況、さらに、現在では発行された国債の4割を日銀が買い入れている、異常な金融の実態を話す。

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 「ゲラのチェック、早くしてくれよ。普段より締め切りが早いからな」

 編集部で副編集長の布施が電話の相手に怒鳴り始めた。池内は顔をしかめた。昨夜、中目黒で河田と未明まで話し込んだ。痛飲したわけではないが、偏頭痛がひどい。もっと調べたい、書きたいと思う事柄が続々と目の前に現れたが、まとめるスキルが圧倒的に足りない。もどかしさ、焦り、不甲斐なさが精神的な痛みにつながっている。

 次号の特集記事が続々と集まり始め、記者や編集者が慌ただしくデスクとコピー機の間を行き交う。目玉企画は憲政史上最長の在任記録を更新した芦原首相だ。親芦原を自任する政治家のほか、学者や実業家らが個別インタビューに答える一方、アンチ芦原を声高に主張する思想家や実業家もインタビューに応じた。メインは、両者が激しく互いの主張をぶつけ合う対談特集だ。

 3日前、当の本人である芦原首相が個別インタビューに応じると官邸広報室から連絡が入り、編集部は俄然熱を帯び始めた。誰が芦原本人に話を訊くのか、布施を中心に調整が始まった。池内は取材にアテンドしたいとの欲求を押し殺した。

 特集に参加した外部のライター数人とインタビューの人物撮影を担当したカメラマンも集まり、丸テーブルを囲んで打ち合わせを始めた。週刊誌時代に経験したのと同じように、原稿や写真という新鮮な素材が集まると、編集部はにわかに慌ただしくなる。

 池内はデスク上のノートパソコンに目を転じる。周囲が忙しくなるほど、自分は居心地が悪い。異動直後の新人記者がなんの戦力にもなっていないことを痛感する。

 〈丁寧と悠長とは意味合いが違いますよ〉

 仙台出張から戻った直後、小松が告げた言葉が重くのしかかる。うるさ型の布施とは違って鷹揚な編集長だが、一つ一つの言葉にはある種の凄みがある。いっそ怒鳴られ、発破をかけられた方が気楽だ。当の本人は今、集まった原稿のチェックを終え、編集長席で最新北欧ミステリーのペーパーバックを読み耽っている。

 〈モラルハザード〉

 池内はテキスト画面に向かい、昨夜唐突に口を衝いて出た言葉を打ち込んだ。次いで、画面をインターネットの辞書に切り替え、モラルハザードの意味を改めて確認する。

 〈規律が喪失し、倫理観が無くなった状態〉

 長引く不況、デフレ脱却の掛け声の下、日本の政策金利は超がつくほどの低位に切り下げられ、ついには史上初となるマイナス圏に沈んだ。日銀の施策により、世の中から金利という概念がごっそり消えたことで、企業や個人に金を融通する民間銀行の経営が苦しくなった。

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