藤田俊雄率いる大手スーパーマーケットチェーン、フジタヨーシュウ堂で幹部ら4人が総会屋に金を渡して逮捕される事件が起きた。真面目に経営に取り組んできた俊雄はショックを受けたが、自分が全責任を引き受けて辞任し、副社長の大木将史に後を託すことを決意する。将史は俊雄の申し出を承諾しつつも、自分は俊雄の長男である常務の秀久が社長に就くまでのつなぎか、と尋ねた。
「おかしなことを言うものではありません。会社は、私の私物ではありません。私は、オーナーですが、全ての株を持っているわけではありません。上場した以上は、株主の1人にすぎません。会社は多くの他人様のおカネで運営されているのです。そのことを片時も忘れたことはありません。ですから息子への世襲など考えることは以ての外です」
俊雄は厳しく言い切った。

「しかしそうは言うものの私も人の親です。息子が可愛いことは間違いありません。もし秀久が、社長の任に堪えるのであればよろしいですが、そうでなければ会社も本人も苦労するだけですから、あなたが秀久を社長にするまでのつなぎなどということはありません」
「承知しました」
「しかしこれだけは肝に銘じていただきたい。『成長より生存』ということです。あなたに比べると臆病な私の戯言(ざれごと)のように聞こえるかもしれませんが、成長だけを考えると貪欲になり、無理を重ねることになります。これでは会社は長続きせず、多くの人に迷惑をかけることになります。なによりも『成長より生存』を考えてください。そしてもう一つは『退く時は自分で決める』ということです。経営にはアクセルとブレーキが必要です。アクセルを踏むのは、わりと簡単で、誰でもできます。しかしブレーキを踏むことは難しい。特に出処進退のブレーキは難しい。なかなか踏めません。しかし踏まないと暴走してしまいます。ですから退く時は自分で決めねばならないのです。私は、あなたを後継者に決めました。決めた以上は、うるさいことは言いません。あなたにフジタヨーシュウ堂やアーリーバードなどの経営を全て任せます。しかしそれはあなたが後継者を育て、退く時を自分で決めねばならないという責任を負ったということです。そのことを肝に銘じてください」
俊雄は、将史を見つめた。
将史は、今までにないほどの俊雄の真剣な表情を見つめていた。
いつの間にか目の前の俊雄の姿が大きくなり、自分を覆い隠すような錯覚を覚えた。
「よくわかりました」
将史は、頭を下げた。
「私やあなたはフジタヨーシュウ堂グループという船の船頭に過ぎません。その船には、従業員、お取引先、株主など様々なお客様が乗っておられます。それぞれ行き先が違います。私は、なんとかここまで船を漕いできました。今度はあなたの番です。あなたは船頭だからといって、自分の行きたいところに行けるわけではありません。乗り合わしたお客様の要望に耳を傾けながら、無事に次の港にお運びし、また新しい船頭に舵を任せるのが役割なのです。船を難破させないようにお願いします。経営とは、小さな和船を豪華な客船にすることではありません。いくら豪華にしてもタイタニック号のように難破させてはなんにもなりません。それよりはいつまでも乗り合わせたお客を無事に、安全に港、港に運ぶことです。『成長より生存』、それだけを肝に銘じてください。よろしくお願いします」
俊雄は静かに頭を下げた。
将史は、身震いを覚えた。こんなことは初めてのことだった。正直に言って、怖い。今までどんなことも怖いなどと思ったことがないのに。今の、この瞬間に、この場から逃げ出したい。しかし逃げ出すわけにはいかない。将史は血が滲むほど、唇を噛みしめていた。
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