安倍晋三元首相を凶弾から守れなかったことを受け、警察が警護の強化に乗り出した。だが結局のところ首相の殺害率は変わらないと予想する、驚くべき理論がある。歴代首相の殺害事件を検証し、企業も生かせる新発想のリスク管理術を探る。

(写真=安倍氏:竹井 俊晴、伊藤博文など6点:国立国会図書館ウェブサイトから転載)
(写真=安倍氏:竹井 俊晴、伊藤博文など6点:国立国会図書館ウェブサイトから転載)
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 1932年5月15日、夕刻の首相官邸──。犬養毅首相(当時)はいきり立つ若い将校や士官候補生を連れて、日本間に入った。座卓の前に腰を下ろし、たばこ入れから1本を取り出すと、拳銃を手に立ったままの若者らを見上げて「君らもどうだ」と勧めた。

 ふと足元に目をやると、全員軍靴のままだ。「まあ、靴でも脱げや。話を聞こう」

 だが、遅れて部屋に駆け込んできた将校が叫んだ。「問答いらぬ。撃て、撃て」。パンパンパンと乾いた銃声が官邸に鳴り響いた。

 官邸に侵入した9人の若者をはじめ、海軍の青年将校が中心になって実行した「5.15事件」は、現職の首相が暗殺されるという、最悪の結果に終わった。

 犬養、伊藤博文、原敬、浜口雄幸、高橋是清、斎藤実──。

 1885年に初代首相が誕生してから、1945年に終戦を迎えるまでの60年間に、現職と元職を合わせて歴代首相6人の命が奪われた。「10年に1人」という極めて高い殺害率だ。

 戦後は一転して社会が安定し、現職の首相や、首相経験者がむやみに討たれることはなくなった。しかし、戦後77年となる2022年7月8日、安倍元首相が奈良県で参院選の応援演説中に銃撃され、歴代7人目の殉職者になってしまった。

 民主主義を守るためにも、どうしたら、首相たちの殺害を防ぐことができるのかを、改めて考えねばならない。

交通事故から発展した理論

 歴代首相の殺害率は、彼ら自身の「リスク許容度」によって決まっている──。そう示唆するリスク分析理論がある。「リスク・ホメオスタシス(RH)理論」と呼ばれており、交通事故の研究から発展した。

 曲がりくねった危険な未舗装路をクルマで走行する時、一般的に運転は慎重になる。一方、路面を舗装し、カーブを減らすと、今度は安心してしまい、以前よりもスピードを出すなどして、運転が大胆になる。

 ドライバーには一定のリスク許容度があり、どんな道路を走行しようとも、その許容度に合わせるように運転する。結果的に道路が安全であろうと、危険であろうと、事故率は大して変わらない。事故率を決定しているのは、道路の危険度ではなく、あくまでもドライバー自身のリスク許容度だとする。

 この斬新な考え方を、戦前・戦中の歴代首相に当てはめてみれば、彼らが戦後の歴代首相よりもはるかに「危険な道路」に直面していたと見なすことができる。要人に対するテロが横行するような物騒な時代だった上、警察による要人警護も、わずか9人の将校らの官邸侵入を防げないほど手薄だった。