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 「(総発電量に占める)自然エネルギーの比率を20年代に少なくとも20%台にする」。首相の菅は浜岡原発の運転停止を求めたのと同じ月に、突然、太陽光や風力などの再生可能エネルギー(=自然エネルギー)の利用を大幅に拡大する方針を打ち出した。

 この時点で日本のエネルギーミックス(電源構成)に占める再エネの比率は約9%。これを倍増させるとしたのは、福島第1原発の事故で、原子力の発電量がこの先落ちていかざるを得ないとみたからだ。事故の前年、10年に政府がまとめたエネルギー基本計画は、発電量に占める原子力の比率を09年の30%弱から30年に50%に高めるとしていた。そのもくろみが完全に崩れたことで、今度は、再エネ育成にかじを切らざるを得なくなったのだ。

 歴史的な流れを振り返ると、日本の電力業界では長年にわたって旧態依然とした構造が守られてきた。全国の電力事業を大手10社が地域別にほぼ独占。発電から送配電、小売りまで一貫して保有していた。

 さらに原価に一定の利益を上乗せした総括原価方式による認可料金で安定収益が確保される。経団連の会長も出したことのある東京電力はもちろん、地方で電力会社といえば地元経済界に君臨する有力企業だった。火力、原子力などの発電所や長大な送電線は、多くの産業からの多額の資材・機材の調達需要を生み、地域経済に強い影響力と政治力を持った。

 その結果、「1990年代の電力関連の審議会で大手企業の経営者から日本の電力料金は米国の約3倍にもなるという証言が出た」と、電力業界に詳しい大阪大学名誉教授の八田達夫が指摘するように、割高な電力料金に産業界からは不満も出ていた。

90年代からの改革は進まず

 もちろん改革の必要性は認識されていた。欧米で90年代初めから発電や小売りなどの電力市場に新規参入を認める自由化が進み始めたこともあり、日本でも新たな動きは起きた。95年、発電所を持ち、電力会社に電力を供給する独立系発電事業者(IPP)への新規参入が解禁。2000年からは工場や大規模商業施設など特別高圧・高圧と呼ばれる電力を使う大口需要家向けに販売する特定規模電気事業者(PPS)への新規参入ができるようになった。

 だが、00年代前半まで、こうした新電力と呼ばれる参入組はわずかなシェアしか取れなかった。発電所を建設し、安いコストで発電できる資本力を持つ事業者がまず少ない。さらには電力会社や企業が自家発電設備などでつくった電力の余剰分などを売る日本卸電力取引所が05年に取引を始めたものの、取引量が増えず電力の販売を手掛ける業者が安定的に調達できる環境が整わなかったからだ。

 実態として「10年までは、(高圧までの大口電力を自由化したことで)もう打ち止めという感じだった」と、東京理科大学大学院教授の橘川武郎は、当時の電力自由化の議論について証言する。改革マインドはその程度のものだったのである。

 大手電力も高をくくっていた。ある新電力の社長は今もこう言って怒りをのぞかせる。「うちが営業に行く企業に『あんな電力供給が不安定なところから買ったら大変なことになるよ』と大手電力会社がささやいて妨害した」

 しかし、福島第1原発事故によってそんなおざなりの改革では済ませられなくなった。「発電電力量の約30%あった原発の穴は、まずは火力発電の増大と節電で埋めたが、次の電源として再エネを育てるほかなくなった」(大和証券の電力担当アナリスト、西川周作)ためだ。

(写真=左上:AP/アフロ、その下:Duits/アフロ、右上:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)
日経ビジネス2019年7月22日号 54~57ページより目次