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小泉純一郎政権の「構造改革」路線で規制緩和が本格化した。だが、目玉の郵政民営化は、期待ほどの効果を生んだとは言い難い。新自由主義の下、数々の手が打たれたが、迷走が続いている。

 「これから10年ぐらいかけて、ゆっくりと(民営化を)やればいいだろう」

 2003年4月、総務省の外局である郵政事業庁が受け持っていた郵便や郵便貯金、簡易保険などを国の特殊法人である日本郵政公社に移管し、総務相として一つの改革を終えた片山虎之助は一息つけると思っていた。

 ところが、それはつかの間のことだとすぐに気づかされる。郵政改革を長年の持論としてきた首相の小泉純一郎が「民営化まですぐにやるんだ」と言い出したからだ。勢い込む小泉に、自民党内は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。「多くの議員が郵政民営化には反対だった」(片山)からだ。

 それから2年、国会は郵政民営化を巡ってもめにもめた。小泉の強い“圧力”で党内では徐々に賛成派が増え、衆院では郵政民営化法案が可決した。ただ、賛成と反対の差はわずか5票。参院の採決では、想定以上の造反者が出て否決された。小泉は即座に衆院解散に打って出た。これには党内からも異論が噴出したが、小泉は強硬だった。05年8月の有名な「郵政解散」である。

2009年2月23日号
特集は「強い政府の落とし穴」。リーマンショック後、世界で規制緩和が逆流し、保護に動いたことに警鐘を鳴らした。

 それだけではない。小泉は総選挙に際し、自民党幹部にこう厳命した。「反対した議員の選挙区には対立候補(刺客)を立ててください。必ず(造反議員の)全選挙区に」。郵政民営化という改革に挑戦する首相と、それを阻もうとする党内の守旧派。そんな対立構造を鮮明にすることで有権者の支持獲得を狙ったとみられる。

 これは大成功した。「構造改革なくして成長なし」。翌月の総選挙で小泉が街頭演説に立つと、その絶叫を聞くために有権者が波のように押し寄せた。与党は衆院の約7割の議席を獲得して圧勝。その意味を理解していたかどうかはともかく、「改革」という言葉が国民を熱病のように動かした。

規制緩和で日本再浮揚期待

 00年代、特に小泉政権時代(01年4月~06年9月)は、様々な分野で規制緩和が相次いだ時期だった。小泉自身の宿願だった郵政民営化のほかにも、多くの規制に手が付けられた。

郵政民営化の式典には小泉元首相(左から2番目)も参加(写真=毎日新聞社/アフロ)

 02年2月には従来、免許制だったタクシー事業が許可制になった。規制を緩めることで新規参入しやすくし、さらに、料金は国が認めた範囲内なら自由に設定できるようにした。

 不動産では02年春に、一定の条件の下、大幅なビルの容積率緩和などを認める都市再生特区制度が設けられた。これを活用して、東京都心の高層ビル建設などが動き出した。そして04年6月には、道路公団の分割・民営化が決まり、05年4月までには電力小売りの自由化の範囲が拡大した(家庭向けを含む全面自由化は16年4月から)。

規制緩和による容積率緩和で東京都心では再開発が進んだ(写真は2012年6月の東京・丸の内)(写真:共同通信)

 矢継ぎ早に打ち出された規制緩和の裏には、2つの要因があった。一つは日本経済の地盤沈下である。内閣府によると、00年の日本の名目GDP(国内総生産)は約526兆円だったが、09年は約489兆円に縮んでいる。

 中国などの新興国が力をつけたことで、かつて日本経済を牽引した電機産業などが競争力を失い、輸出企業を中心に工場の海外移転が進んだ。国内が空洞化する一方、それを埋め合わせるほど成長力のある産業は誕生せず、日本経済には沈滞ムードが漂った。

日経ビジネス2019年6月17日号 48~51ページより目次