2000年前後から日本の会計基準は大きく変わった。時価主義化、連結中心となり、含み益などに頼る経営は続かなくなった。経営に緊張感をもたらしたが、経営者次第では不正もまだ起こり得る。

<span class="fontBold">粉飾決算で釈明するカネボウの中嶋章義会長(中央)</span>(写真=朝日新聞社)
粉飾決算で釈明するカネボウの中嶋章義会長(中央)(写真=朝日新聞社)

 2000年3月期から5年間で2150億円もの粉飾があった──。

 05年4月13日、1887年創業で戦後日本を代表する名門企業の一社、カネボウが突然、5期分の決算を訂正することを明らかにした。巨額の粉飾決算が原因だった。カネボウはこれによって、化粧品などの事業ごとに解体されることとなる。日本産業史に残る粉飾劇は、大企業とその財務数値への信頼を失墜させた。

 不正は、繊維、化粧品、食品、薬品など多くの部門で架空売り上げや経費の先送り計上などによって虚構の数字を作りあげていたというもの。粉飾を主導した以前の経営陣に加え、それを手助けしたとして同社の会計監査を担当していた公認会計士4人が逮捕されるという前代未聞の事態(会計士のうち3人が起訴)に発展している。

 不振に陥った企業を粉飾で健全に見せかけようとした悪質さが印象に残ったが、事件の裏にはもう一つ大きな変化があった。2000年ごろから急激に進んだ会計基準の変更である。

 財務諸表を作成するためのルールである会計基準はこの時期に一変した。まず一つは、親会社単体の数値を重視する「単独」決算中心から、グループ企業全体を1つの組織のようにみる「連結」決算中心主義への変化である。1999年4月に始まる決算期から適用された。

 グループ企業に損失を付け替えて、本体決算をきれいに見せるといった手法は通用しなくなった。その“対策”としてカネボウの不正は深刻化していく。メインバンク出身の元副社長を中心に作戦を練り、損失や負債の大きなグループ会社の持ち株を形だけ取引先に譲渡するといった方法で連結から外す。さらに、連結外にした後も取引先に押し込み販売を継続するなどして実態を維持したとされる。

<span class="fontBold">カネボウの監査をした中央青山監査法人の後継法人も結局解散</span>(写真=読売新聞/アフロ)
カネボウの監査をした中央青山監査法人の後継法人も結局解散(写真=読売新聞/アフロ)

 会計士らは監査の過程でこうした意図的な操作に気付いたが、積極的にやめさせなかったという。逮捕された会計士の同僚は、顔を曇らせながら振り返る。「(リーダーは)温厚な人だった。20年以上カネボウを担当したが、単独中心の時代はグループ会社との取引について、特に厳しく言う必要はなかったのだろう。それが突然、連結中心になり、従来のやり方を急に変えろとは言えなかったのではないか」

減損会計が経営に“影”落とす

 カネボウは極端な例だが、90年代までグループ会社を親会社の決算対策に使うことは珍しくなかった。「業績見通しが悪い時に、親会社の不動産や施設を子会社などに売却し、利益をかさ上げするといったことはしばしば行われていた」(監査法人アヴァンティア代表の小笠原直)。連結決算ではできないが、単独ではこうした利益の計上が可能なためだ。

 そして、2000年代前半に起きた会計基準の変化でもう一つ大きかったのは、時価主義への“転換”である。1990年代までの日本基準は、不動産、株式、設備などの取得時の価格を計上する原価主義だった。財務諸表上の価格は、市況変動があっても変える必要がなかったが、時価主義では基本的に期末に市場価格で計算し直すことになった。

 例えば企業が持つ株式などで、売買目的のものは2000年、持ち合い株は01年のそれぞれ4月に始まる決算期から時価評価となった。また、会社が将来、退職者に給付する企業年金債務の期末時点での重さ(現在価値)を測る基準(退職給付会計)が00年4月から始まる決算期で適用開始となった。